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2019.11.9
第4回『太陽はひとりぼっち』:世間を騒然とさせた現役中学生作家、高校生になって初の書き下ろし小説!早くも大評判!! 全6回連載
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第4回『太陽はひとりぼっち』
コーヒーの空き瓶に二本白いバラを挿して、賢人のところにも持っていく。
むさくるしい部屋に入るのが嫌だったのでドアの前に置いておくと、ちょうどそこへ賢人が帰ってきた。
「あ、外にいたんだ。ぶらぶらしてたの?」
「いきなりの失礼だよね。ま、その通りなんだけど。そのバラどうしたの?」
「友達がくれたの。庭にたくさん咲いてるからって」
「そうなんだ。ってかさ、ドアの前にそうやって置かれると、なんか俺死んだみたいじゃない?」
「いいじゃない、どうせ似たようなものでしょ?」
「重ね重ねの失礼発言だな。でもそれに言い返せない己のふがいなさよ。でも綺麗だね。ありがと」
「すごくいい香りだから。少しは部屋の臭み消しになるかと思って」
「臭み、って。ま、これも事実だから、こうべを垂れるのみ」
と言いつつ、賢人が瓶を手に取る。
「白いバラの花言葉って知ってる?」
花に顔を向けたまま賢人が言う。
「ううん、知らない」
「『深い尊敬』『私は貴方にふさわしい』」
「へえ、そうなんだ」
「本数にも意味があって、二本なら『この世界はふたりだけ』」
「さすが、腐っても元秀才、元神童、現ニート」
また何か言い返してくるかと思ったが、賢人は黙ったまま白バラを見つめていた。怒ったのかと思ったが、そういうわけでもないようだ。何かに心を持って行かれたような顔をしていた。
家にはベネチアンガラスのフラワーベースはなかったが、白目を剥いた不気味な鳳凰もどきが乱舞している中国の壺っぽい花瓶があったので(町内のバザーで売れ残ったものらしい)、それに生ける。部屋が狭いので、たちまちバラの芳香で満たされる。
「おおっ、ここはベルサイユ宮殿ですか?」
言いながらお母さんが、花瓶の横に野菜コロッケを置く。お肉屋さんで一番安くて、でも栄養のある、お母さんに言わせれば一番コスパのいいお惣菜だ。
「コロッケは、フランスのクロケットから来てるからね。今日の食卓にぴったりでございましょう? マドモアゼル、ボンジュール、ブラボー」
大きな口を開けてコロッケを食べるお母さん。
「ブラボーはイタリア語だよ」
「ま、あのへんあのへん。埼玉と群馬みたいなもんだろ?」
「わかりやすいっ」
話しながら、やっぱりここが私の居場所だなあ、と思う。そんなこと意識することもなく過ごしてきた。自分の家なのに居場所がないなんて。あんな大きい家なのに。借間で狭くても、ここにはしっかり私の居場所がある。賢人だって、あのきったない二階の部屋が自分の居場所だ。あそこ以外にない。自分のことを、その家族にはいらないピースだとか、そんなふうに思えてしまうほどに佐知子はつらいのだ。いくらローラアシュレイの布団で寝ていても。
とりあえず、のしイカ布団は、近いうちに打ち直してもらおうと思った。
翌週、学校から帰ってくるとアパートの前に若い男の人が立っていた。
きちんとしたスーツを着ている。髪も短く綺麗に整えられ、靴もよく磨かれている。何かのセールスマンだろうか。うちに来られてもなんにも買えやしないけど。
男性は手元の紙とアパートを見比べている。誰かの部屋を訪ねてきたようだ。
「あの、何号室をお探しですか?」
声をかけたのは、男の身なりがきちんとしていて、清潔感があったからだ。お母さんには日頃から「服装で惑わされるなよ。人を騙してやろうという詐欺師は、綺麗な格好をしているもんだ」と言われてはいるのだけど。
「ああ、住所はここなんですけど、どの部屋かはわからなくて」
男性が白い歯を見せて笑った。涼しげな一重の目に柔和な笑顔。手元の紙を覗き込むと、そこには確かにここの住所と、その下に苗字が書いてあった。
「え、松下?」
「ええ、松下賢人くん。この住所に住んでいると思うのですが」
「賢人?」
大家さんの苗字が、松下であったことを久しぶりに思い出す。
「このアパートの大家さんの息子さんですよね」
「そう、そうです、昔、彼、松下くんがこの隣の一軒家に、ご両親と住んでいる頃に遊びに来たことはあるんですが」
そんな昔の知り合いなのか。だとするとまだ高校生とか中学生の頃なんじゃないか。賢人がまだ秀才だった頃の。言われてみれば目の前にいる男性は、賢人と同じくらいの年齢に見える。
もしかして同級生とか?
「彼の、松下くんのことはご存知ですか?」
「ええ、まあ。うちの母親と賢人の母親が仲いいんで。私が小さい頃から、うちのすぐ上の部屋に住んでますから」
「松下くんは、元気ですか?」
「まあ元気といえば元気と言うか、半分死んでいると言うか。まあ無為徒食な毎日ですね。長生きしたくないようなことはよく言ってますけど。まあ、早く言えばニートです。もうずっと。私が保育園入る前から」
「そうなんですか。あの、それで」
言いかけたところで、男性の視線が私の肩ごしに何かを捉え、息を呑むのがわかった。振り向くと、賢人が立っていた。
石のように固まる、とはこういうことをいうのだろう。
男性と賢人は、お互い顔を見つめ合ったまま全く動かなくなった。瞬きすらしていない。
「な、なんで」
ようやく搾り出すように、かすれた声を出したのは賢人だった。
「あ、会いに、いや、謝りに、来た」
それを聞いた賢人の表情が明らかにおかしくなった。口は笑おうとしているようだが、目はうろたえ、頬は引き攣り、奇妙なものになった。唇が震え出し、その場に膝からくずおれた。
「え、え、どうしたの?」
体を支え起こすと、顔色が青い、というか白い。貧血だろうか。
男性も手を貸し、賢人を抱えようとする。
「何してんの?」
声に振り向くと、お母さんだった。仕事から帰ってきたのだった。
「あ、お母さん。なんか、賢人が具合悪くなったみたいで」
「ええっ」
素早くお母さんが飛んできて、男性から賢人の体を引き離す。
半開きのまぶたをこじ開けてみたり、ほっぺを軽く叩いたり、心臓に耳を当てたり、脈を取ったりする。
「うん、まあ、大丈夫だろ。貧血みたいだな」
「そうですか」
男性の声にお母さんが顔を上げる。
「えっと、どちら様で?」
「あっ、僕は賢人、松下くんの友達で」
「えええっ、友達? こいつの?」
お母さんの声があまりにも大きいので、いくらこの状態でも、賢人に聞こえるんじゃないかと思って焦る。
「は、はい。学生時代の」
「学生時代って、中学か、高校の時の?」
「はあ、まあ」
「それで今ここで会ったら、賢人、急に倒れちゃって」
私が補足する。
「ふうん。でも、ま、今日はこいつがこんなだから、おにいさんもまた日を改めて、ってことで」
言いながら、お母さんが軽々賢人を抱き上げる。お姫様だっこというやつだ。無精ひげだらけのお姫様だけど。しかしいくら痩せているとはいえ、一応男の人なのだからそれなりの重さはあると思うが、お母さんはまるで幼児を抱えるようにほいほいと抱き上げ「とりあえず、うちに運ぶわ。そういうことで、また今度」と男性に言い残し、さっさとその場を去るので、私も男性に一礼しあとに続いた。
私が部屋の鍵を開け、賢人を抱えたお母さんが中に入り、また鍵を閉めようとした時、男性がまだ心配そうにこちらを見ているのが目に入る。
もう一度軽く頭を下げ、ドアを閉めた。
「布団、出そうか?」
「あー、いい、いい、座布団で。畳の上寝かせて、何か掛けときゃいいだろ」
具合が悪い人に対して扱いがぞんざいな気がしたが、うちにはのしイカ布団しかないから、どのみち畳の上とそう変わらない。頭の下に座布団を敷いて寝かせる。
「今日、大家さん、信用金庫のご招待で歌舞伎見に行くって言ってたから、まだ帰ってきてないだろ。食事もしてくるって言ってたから。二階の自室に運んでも良かったんだけど、そこで死なれてても困るからな」
「たいしたことないって言ったのに?」
「まあ、体はね。でもさ、こいつだから部屋に入れたんだからな。普通だったら女所帯に男なんか絶対入れちゃダメだかんな。特にひとりの時はな」
「賢人は、顔見知りだからいいんでしょ?」
「顔見知りっていうのも、油断できないんだぞ。顔見知りによる犯行ってのが多いんだから。いや、そういうことじゃなくてさ、こいつは大丈夫なの」
「大家さんの息子だから?」
「いや、そういうことでもなくてさ」
賢人が「ううーん」と言って寝返りを打ったので、ふたりで口をつぐむ。
お母さんが、賢人を起こさないように静かに夕食の支度を始めたので、私も制服を着替えてくる。
スタミナ餃子が焼き上がった頃、賢人が目を覚ました。掛けてやった毛布を引き上げ、目玉をせわしなく動かしている。
「起きたんかい? どうだよ、具合は? ちゃんと飯食ってないから、ふらつくんだよ」
「いや、そういうわけでは」
もごもご答えたが、お母さんには聞こえていないようで「ちょうど良かった、飯、飯」と、賢人の毛布を引っぺがす。
「いや、僕は、今、そんな食欲なくて」
それも聞こえていないのか、お母さんは賢人の分もご飯をよそう。賢人はゆっくり上体を起こし、膝をついたままのそのそと畳の上を移動して、卓に着く。
スタミナ餃子とジャガイモの味噌汁ときゅうりの漬物とキャベツのサラダ。
「いっただきまーす」
お母さんがいつもの丼で勢いよく食べ始めても、賢人はなかなか手をつけない。箸すら持とうとしない。じっと卓の上のおかずに目を落としているだけだ。
「遠慮すんなって」
お母さんは賢人の箸を取り、タレをつけた餃子をぽいぽいと賢人のご飯の上に載せる。ついでにきゅうりの漬物も。
「はい、餃子弁当」
「弁当、って」
「昔、花が小さい頃、あんまり食が進まない時、こうやってご飯の上におかずを載っけて『はい、お弁当』って言ってやると、パクパク食べたんだよ」
「そうだっけ? 私はあんまり覚えてないけど」
聞いていた賢人の頬が少しゆるんだ。
「いただきます」
軽く手を合わせ、食べ始める。
「美味しいです」
「だろ? これ商店街の春日精肉店が手作りしてるから。にんにくもたっぷり入ったスタミナ餃子。ほんとにスタミナつくから。元気出るから」
そういえば冷凍庫には、春日精肉店で買ったほかの餃子、野菜餃子や水餃子もあったはずだが、スタミナ餃子にしたのは、もしかして賢人の体を考えてのことなのだろうか。
賢人はご飯をおかわりし、味噌汁も漬物もサラダも全部綺麗に平らげた。一心に食べている賢人を見ながら、私は今日訪ねてきた男の人のことを考えていた。
同級生だということだが「謝りに来た」と言っていた。だとしたら考えられることはひとつだ。あいつは、賢人をいじめていたのだ。そう考えるとすべて納得が行く。賢人は、あの男にかなりひどいいじめを受けていたに違いない。それで学校に行けなくなり、やがて退学することになった。
それから何年か経って大人になり、反省したのか良心の呵責というやつか、改めて今日謝りに来たんだ。あいつが賢人の十代を台無しにして、今のような生活にしてしまったんだ。だからあいつを見た賢人は、昔の凄絶ないじめを思い出して、具合が悪くなったのだ。相当ひどいトラウマになっているんだろう。
男の顔立ちはやさしげで、とてもそんなことをするようには見えなかったけれど。
「悪魔は悪魔の姿では現れないんですよ。ひと目で悪魔とわかったら、みんな逃げてしまうでしょう。悪魔は天使の笑顔で近づいて来るんです」
小学校の時の担任だった木戸先生が言っていた。木戸先生は五、六年の時の担任で、卒業した今でも先生の言葉を時々思い出すことがあった。オカルト好きな先生は、サタンとかオーメンとかの話を度々して、子供たちを不必要に震え上がらせ、父兄には問題視されていたので、この時も「またか」ぐらいにしか思っていなかったが、先生が伝えたかった真意が今、わかった。あいつは天使の皮をかぶった悪魔だ。
謝りたいって、何を今更。今頃謝られても、賢人の青春は返ってこないのだ。
無性に腹が立つのと同時に、賢人のことが不憫でならなくなる。
「賢人、もっと食べなよ。餃子、足りなかったらもっと焼くよ?」
「いや、もう十分。お腹いっぱい」
「あ、そうだ。冷凍庫にアイスあるんだ」
何種類かあったが、一番高い、味の濃いバニラアイスを出してやる。
「お、花のお取っときのじゃん。何かあった時に食べようって言ってたやつ」
何かあった時、というなら今がそうだろう。何もいいことがあった時とは限らない。私は、賢人に元気になってもらいたかった。美味しいものは人を幸せにする。今だけでもいいから、私は賢人に幸せな気持ちになって欲しかった。
「これ、すごく美味しい」
そう言う賢人を見て、良かったと思った。
帰りがけ玄関先で、
「また腹が減って気持ち悪くなったら、いつでも来いよ。気持ち悪くなるまで空腹じゃなくてもさ。小腹が減ったくらいでも来いよ。うちにはいつも何かしら食べもんがあるからさ」
というお母さんの言葉に「はい」と、賢人は素直に頷いていた。