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2018.3.9

3月10日東京大空襲の日「病院は1000人をこす負傷者であふれかえっていた」。故・日野原重明著『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』

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3月10日東京大空襲の日「病院は1000人をこす負傷者であふれかえっていた」。故・日野原重明著『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』

「地獄があるとすればこんな光景」生涯現役を貫いた医師が見つめた太平洋戦争

次世代に平和といのちの大切さを伝えていくことを使命とされた故・日野原重明先生。

東京大空襲があった1945年3月10日、聖路加国際病院に内科医として勤務していました。

下町を中心に300機以上のB29が爆撃。

東京はみるみるうちに火の海に包まれ、一夜にして10万人を超える死者と100万人もの被災者を出したと言われています。

その晩、日野原先生は東京・世田谷の自宅にいました。

 

‹‹自宅近くにも焼夷弾が落とされましたが、みんなで火をたたき消すことができたので、火災はまぬがれました。

「病院へ行かなければ!」

家族に告げて、わたしは聖路加国際病院をめざしました。深夜未明のことですから電車は止まっています。甲州街道を歩いて新宿に向かい、皇居周辺の半蔵門まで行くと、はるか南の方角に病院の棟が小さく見えました。本来ならば、ほかのビルや建物があって見えるはずがないのに、です。

「みんなは無事だろうか」››

 

1000人をこす負傷者であふれかえった病院、救えなかったたくさんのいのち、病院ロビーに集まり聞いた玉音放送・・・・・・日野原先生は体験した戦中戦後の惨状をあますことなく語ります。

 

また、日野原先生が働いていた聖路加国際病院は、アメリカのルドルフ・B・トイスラーが1902年に開設し、開院当初からアメリカの支援を受けていたため、太平洋戦争がはじまると、ほかの病院では経験しないような特別なことが起きました。日本政府からの圧力によって、医者や役員など職員が日本人に変えられ、病院名も大東亜中央病院に変更。そして、終戦直後にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に建物をすべて取り上げられました。

 

‹‹無我夢中のうちに建物全部を引き渡したのは、9月24日でした。

この日、病院の屋上にはアメリカ国旗の星条旗がひるがえり、正面には「米国陸軍第42病院」の看板がかけられました。

わたしたちは複雑な思いを胸に「大東亜中央病院」と呼ばされていた病院をあとにしたのでした。››

 

「戦争やいじめは、人間が人間を愛したり尊敬したりするあたりまえの心を狂わせてしまうもの」。医師として患者に寄り添い続けた日野原先生が、戦争経験を通して学んだ「いのち」の尊さを、戦争といじめの共通点を挙げながら次世代に語りつぐ一冊です。

 

‹‹戦争を未来へ語りつぐことの必要性について、わたしは戦時中から感じていました。

聖路加国際病院やわたしたち医療従事者がいのちを守る使命は、目の前にあるいのちだけでなく、明日生まれてくるいのち、そして未来に生まれるいのちを守ることだと思ったからです。››

 

『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』

著/日野原重明

 

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