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2017.3.16

戦後日本人はなぜこの男の存在を忘れてしまったのか――。知られざる“良識派”軍人の初めての本格評伝『多田駿伝』

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キーワード: 人物評伝 戦争 ノンフィクション

戦後日本人はなぜこの男の存在を忘れてしまったのか――。知られざる“良識派”軍人の初めての本格評伝『多田駿伝』

陸軍「悪玉」史観は本当に正しいのか?

日本軍が日中戦争から大東亜(太平洋)戦争へと突き進んでいった要因として、

しばしば陸軍の暴走ということが挙げられます。

実際、多くの陸軍将官が、誤った戦略の下に侵略戦争を仕掛けた元凶とされ、

戦後の東京裁判などで「戦犯」として罰せられました。

その結果、陸軍だけを”悪玉”と見なすような歴史観が戦後日本に広がりました。

しかし、そうした見方は本当に正しいのでしょうか?

 

涙ながらに「日中和平」を訴えた参謀次長がいた!

かつて陸軍の参謀本部には、

戦線の不拡大を主張するグループが存在していました。

満洲国建国後の中国大陸において、むやみに作戦地域を広げるのではなく、

「日中和平」の道を模索しようとする勢力でした。

戦史や昭和史に詳しい向きにはよく知られた存在ですが、

歴史教科書には詳述されていないためか、

彼らの動向はあまり広くは知られていません。

昭和10年代の一時期、その「不拡大派」の中心的存在として、

盟友の作戦部長・石原莞爾(いしはらかんじ)と共に奔走していたのが、

参謀次長・多田駿(ただはやお)でした。

 

東條英機と対立して破れた“幻の陸軍大臣”

日中戦争の口火を切った盧溝橋(ろこうきょう)事件から

半年後の昭和13年1月15日、

日中交渉の継続か打ち切りかを決する大本営政府連絡会議の席で、

多田次長は涙ながらに「日中和平」を主張しました。

しかし、結局多田ら「不拡大派」の意見は退けられ、

一時は多田が次期陸相の最終候補に推されたものの、

その人事も実現しませんでした。

(さらにその翌年、陸相に抜擢されたのが東條英機であり、

 のちに多田と石原は陸軍内で対立関係にあった東條陸相から

 退役を命じられることになります)

多田・石原ら「不拡大派」が要職から外されて以降、

日本は泥沼の日中戦争、そして太平洋戦争に突入していったのでした。

 

仙台出身の「軍人らしくない軍人」初の評伝

多田駿については、これまで大部の人物事典でも

「関係する文献は極めて少ない」などと評され、

伝記や評伝は一冊も出版されていませんでした。

大学で近現代史を学んだ著者は、

在学中にこの多田の存在に興味を抱き、

遺族の元に眠っていた遺品や未発表史料などを発掘しながら、

その足跡を丹念に辿りました。

すると、宮城県仙台で生まれ育った青年時代から

「弱い者いじめ」を忌み嫌い、

赴任した中国各地では日本人の優越意識を戒め、

戦場で玉砕していく若い兵士らの身命を案じつつ、

書にすぐれ、詩や和歌にも通じた禅僧・良寛の生き方に憧れ続けた、

人間味あふれる素顔が明らかになっていきました。

 

本書は、「軍人らしくない軍人」と評された多田駿の

思想と行動を辿る、初めての評伝となります。

戦争や陸軍に対する見方が一変する刮目の

戦史ノンフィクションを、ぜひご一読ください!

 

『多田駿伝』 著/岩井秀一郎

 

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