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2020.3.15

【ためし読み第3回】知念実希人『十字架のカルテ』重度の統合失調症を抱える殺人犯。その責任能力は? 精神鑑定医・影山は、数少ない手がかりから、彼の心に巣食う闇を覗いてゆく――。[全3回]

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【ためし読み第3回】知念実希人『十字架のカルテ』重度の統合失調症を抱える殺人犯。その責任能力は? 精神鑑定医・影山は、数少ない手がかりから、彼の心に巣食う闇を覗いてゆく――。[全3回]

 事件が起きたのは二ヶ月ほど前の日曜、新宿歌舞伎町にあるシネシティ広場だった。

 その日、大学生である白松京介は、一人暮らしをしている品川区大崎のマンションを出て山手線で新宿に向かうと、デパートで包丁を盗んだ。会計をせず売り場を出たことに気づいた警備員が声をかけると、白松は包丁をパッケージから取り出して奇声を上げ、警備員がひるんだ隙に逃走した。

 デパートを出た白松は、包丁を片手に歌舞伎町の大通りを駆けてシネシティ広場に到達すると、映画公開イベントで集まっていた群衆に襲い掛かった。結局、駆けつけた警察官に取り押さえられるまで、白松は十二人の男女を切りつけ、そのうちの四人が命を落とした。

 逮捕後、白松は警察の取り調べに対して無言を貫き、送検されてようやく喋りはじめたが、その言動が支離滅裂であったため検察は簡易精神鑑定を実施。白松は『重度の統合失調症による妄想状態』と診断される。それとほぼ同時期に、彼に去年から精神科への通院歴があることが判明し、白松京介の名はマスコミの報道から一気に消え失せた。

 その後、検察はさらに正確な診断を求めて、二ヶ月ほどの時間をかけて詳細に行う本鑑定を影山に依頼した。それに伴い、検察庁からこの光陵医大附属雑司ヶ谷病院に白松の身柄が移されたのだった。

 当初は奇声を発したり、暴れたりと精神疾患によると思われる強い症状を見せていた白松だったが、抗精神病薬の投与により急速に症状が改善し、二週間ほどで通常の会話が可能な状態になった。

 主治医である影山は、これまでほとんど事件や疾患について話題にすることはせず、白松が好きだという欧州サッカーの話題など世間話を中心に面接を行っていた。刺激の少ない話を積み重ねる中で、患者と信頼関係を結んでいく。精神科の治療の中では標準的な方法だ。

「それでははじめよう」影山はあごを引いて白松を見つめる。「君の身になにかおかしな症状が生じはじめたのは、いつ頃からだった?」

 白松は一度大きく息を吐いてから話しはじめた。

「はっきりといつからかは分かりません。ただ去年の春くらいから、所属していたフットサルサークルの仲間から陰口を叩かれていると感じるようになりました」

「実際に彼らは君を悪く言っていたのかな?」

「……分かりません」白松は哀しそうに首を横に振る。「耐えきれなくなって問い詰めても、みんな否定しました。けれど、あの頃の僕は絶対に悪口を言われていると確信していました」

「どうして確信を?」

 白松はつらそうに、鼻の付け根にしわを寄せた。

「自分でも分からないんです。我慢できなくなってサークルを辞めたら、今度は大学の友人たちも同じように僕の悪口を言っているような気がしてきて……。それで大学に行けなくなりました」

「君は去年の夏休み明けに大学に行かなくなり、休学届を出して実家に戻っている。夏休み中はどのような生活を?」

「最初は大学に行かなければ大丈夫だったんです。けれど、そのうちに買い物などで外に出ると、周りの人が僕を監視しているような気がして……、その人たちの話し声が全部僕の悪口のような気がして……、それでマンションの部屋から出られなくなりました」

「外に出られない間、食べ物などの生活必需品は?」

 白松を追い詰めないようにか、影山はゆったりとした口調で質問を重ねていく。

「ネットの宅配便を使っていました。配達の人が襲ってくるかもしれないと思って、マンションの宅配ボックスに配達してもらって、深夜にそれを取りに行っていました」

「その方法なら他人と顔を合わせなくてすむ。その生活で、気持ちは落ち着いたかな?」

「いいえ!」白松はやや興奮気味に言うと、片手で目元を覆った。「そのうちに、家の中にいても誰かに監視されているような気がしてきたんです。特にテレビ! テレビからなにか電波が出て、僕を探ってくるというか、攻撃してくるというか……」

「大丈夫だ。落ち着いて。ゆっくり深呼吸をしなさい」

 影山に促された白松は、「すみません」と素直に深呼吸をくり返す。

「さて、それじゃあ続けよう。夏休み明け、異変に気づいたお母さまが部屋に来たと資料には書かれている。そのあとはどうなった?」

「母は僕の状態に驚いて、すぐに実家の近くにある病院を受診させました」

 影山は相槌を打ちながら、「それから?」と先を促す。

「最初は、自分は病気なんかじゃないと思っていたので、行きたくないと抵抗しました。けれど、母に『お願いだから』と懇願されて仕方なく治療を受けました。それで、処方された薬を嫌々飲んだら、すぐに気持ちが凄く楽になりました。悪口も聞こえなくなったし、監視されている感じもしなくなったんです。それでようやく、……自分が病気だっていうことに気づいたんです」

 白松の顔に自虐的な表情が浮かんだ。

「そこの病院に一ヶ月半ほど入院した後、君は大学に復学したんだね」

「はい、主治医の先生がもう退院しても大丈夫だろうと言ってくれたので。復学してからは、とても調子が良かったです。授業も落ち着いて受けられたし、また友達と遊んだりもできました」

「けれど、また症状が悪化した」

 影山の指摘に、白松はぎこちなく頷いた。

「……月に一回、実家のそばの病院を受診して、薬を貰っていたんです。けれど、あんまり調子が良かったんで、もう病気は治ったと思って、……薬を飲むのを勝手に止めました。……絶対に止めちゃ駄目だって強く言われていたのに」

 そのせいで、あんな事件が……。黙って話を聞いていた凜は、奥歯を噛みしめる。

 怠薬。自己判断で必要な薬の内服を止めること。それにより精神症状が再発する事例は、精神科の治療において極めて頻繁に認められる。

「飲むのを止めたらどうなった?」影山は白松の顔を覗き込んだ。

「また、あの症状がぶり返してきました。みんなが僕を監視して、僕の悪口を言っているような気がしてきたんです。だからまた……、部屋に閉じこもりました」

「なるほど、よく分かった。ありがとう」

 大きく頷く影山の前で、白松は唇を噛んで目を伏せる。狭い部屋に、鉛のように重苦しい沈黙が降りた。息苦しさをおぼえた凜は襟元に手をやる。数十秒後、沈黙を破ったのは影山だった。

「さて、これから事件についての話を聞きたいが、大丈夫かな。負担が大きいなら、次回に……」

「大丈夫です!」白松は勢いよく顔を上げると、椅子から腰を浮かした。「大丈夫ですから続けてください。自分がなんで……、なんであんなことをしたのか、先生に聞いて欲しいんです」

 身を乗り出した白松に、凜は恐怖をおぼえる。しかし、影山の表情はほとんど動かなかった。

「分かった。では、事件の日のことを話して」

 椅子に腰を戻した白松は、胸に手を当てると、陰鬱な口調で再び話しはじめた。

「あの日、僕はネットで食料品の買い物をしていました。そうしたらニュースサイトで、九州で小さな地震があったっていう速報が流れたんです。それで、東京に大地震が来ると思いました」

「それはなぜ?」

 影山の問いに、白松は髪を掻き乱す。

「分かりません。けれど、あのときはそう思ったんです! 九州の地震は誰かが人工的に起こしたもので、次は東京に大地震を起こすんだって!」

「それで、君はどうした?」

「止めなければと思いました。これに気づいているのは僕だけだから。一瞬、警察に通報しようとも思いましたけど、きっと警察も奴らの手先だと気づいて止めました」

「奴らというのは?」

「分かりません。でも、警察も政府も、地震を起こす奴らの仲間だと思ったんです。その時期、総理大臣が海外にいたのも、地震が起きるのを知っているからだと気づいたんです。だから、いてもたってもいられなくなって……部屋を出ました」

「そのあと、君は大崎駅から山手線に乗り、新宿で降りている。それは覚えているかな」

「はい、できるだけ人が多いところに行く必要があったので」

「なぜ人が多いところへ?」

「……できるだけたくさんの血が必要だったからです」

 あごを引いた白松は低くこもった声でつぶやいた。その迫力に、凜の背筋に冷たい震えが走る。

「血とは、血液のことかな? なんのために大量の血液が?」

「地震を止めるためです。たくさんの血液が地面に染み込めば、それに含まれている赤血球の鉄分と、ナトリウム、カリウム、そして血液自体の生命エネルギーによって、都心の地下に仕掛けられている人工地震装置のコアが錆びついて作動しなくなる。そう思ったんです。あのときはそう信じていたんです」

 白松は早口でまくしたてる。

「だから新宿で降りて包丁を盗み、歌舞伎町に行ったんだね?」

「……覚えていません。新宿で電車を降りてからのことはなにも覚えていないんです。気づいたら、手が……、体が……、血塗れになっていて、周りにたくさんの人が……」

 両手で頭を抱えた白松は、机に突っ伏して体を震わせる。

 影山は手を伸ばし、白松の肩にそっと手を置いた。

「つらいことを思い出させてすまなかった」

 その口調は柔らかかった。白松はおずおずと顔を上げると、充血した瞳を影山に向ける。

「すみません、取り乱して」

「いや、気にすることはない。今日の面接はこれくらいにしておこう。最後に白松君、なにかいま悩んでいること、心配なことなどはないかな」

 白松はなにか考えるように視線を彷徨わせたあと、絞り出すように言った。

「家族が……、父と母がどうなっているか心配です。僕がこんな事件を起こしたせいで、きっとすごくつらい思いをしているだろうから……」

つづきは本書をお読みください。

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