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2020.3.14
【ためし読み第2回】知念実希人『十字架のカルテ』日本有数の精神鑑定医・影山司が対峙するのは、歌舞伎町無差別通り魔事件の犯人。彼が抱える心の闇の正体とは――。[全3回]
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黙って経過を見ていた凜は、影山の横顔に視線を注ぐ。この病院に赴任してきてから二ヶ月ほど経つが、診療グループが違う影山とはほとんど接点がなかった。カンファレンスなどで見かけても、いつも無表情で淡々と喋る影山に近づき難い雰囲気をおぼえていた。しかし彼の態度は、刺激に対して過敏になっている精神疾患患者にとっては安心できるもののようだ。
「落ち着いたか?」
凜が「はい」と背筋を伸ばすと、影山は「では、行こう」と歩きはじめた。
「精神鑑定に興味があるなんて珍しいな」振り向くことなく影山が言う。「精神鑑定は割に合わない仕事だ。時間や手間もかかるし、触法精神障害者との接触はこちらも精神的に消耗する」
触法精神障害者。犯罪行為を行った精神疾患患者を、司法ではそう呼称していた。
「しかも日本では、精神鑑定は学問的な業績としてはほとんど認められない。金銭的な見返りも少ない。興味本位でできるようなものではない。それを全て理解したうえで、君は精神鑑定を学ぶ覚悟があるんだな」
廊下の奥にある扉の前で再び足を止めた影山は、凜に向き直ると切れ長の目で見つめてきた。その視線の鋭さに一瞬気圧される。
影山は精神鑑定の第一人者で、これまで多くの事件に携ってきた。その中には、誰もが知るような重大犯罪も少なからず含まれている。
先日、開放病棟のナースステーションでカルテを書いていた凜の耳に、ある噂が飛び込んできた。とある重大事件を起こした犯人の精神鑑定を、この病院で影山が行っていると。それを聞いた凜は昨日のカンファレンスが終わったあと、会議室を出た影山を呼び止めて言った。
「私に精神鑑定を教えて頂けませんか?」
珍しく驚きの表情を浮かべた影山は、すぐに無表情に戻ってつぶやいた。
「明日、私の鑑定面接に助手として同席しなさい」
そうして今日、凜は通常業務終了後、影山とともにこの閉鎖病棟へとやって来ていた。
影山の視線を浴びつつ、凜は唾を呑み込む。もともと精神鑑定を学びたいと思っていた。だからこそ精神科医を志したのだ。興味本位などでは決してない。
「もちろん覚悟しています!」
腹に力を込めて言うと、影山は「ならいい」とポケットから鍵を取り出し、そばの扉を開いた。影山に続いて中に入ると、幅二メートルほどの廊下が奥に向かって延び、そこに円形のガラス窓が嵌め込まれた扉が五つ並んでいた。一番手前の扉には『保護室1』と記されている。
保護室。精神症状が苛烈で、医療者や他の患者に危害を加える可能性の高い患者を隔離するための部屋。凜は一番手前の窓を覗き込む。木目調の壁に囲まれた六畳ほどのその部屋には、床が一段高くなっただけのベッドと、トイレを隠すための一メートルほどの高さの木製の仕切りが置かれていた。全く突起のないその作りと天井の監視カメラは、患者の自殺を防ぐためのものだ。
部屋の中心では、痩せた初老の男が床で胡坐をかいていた。入院着は脱ぎ捨てられ、和彫りの刺青が入った背中が露わになっている。彼は苛立たしげに貧乏ゆすりをしながら、腕や体をしきりにつねっていた。いたるところの皮膚が赤く変色し、血が滲んでいる箇所も多い。
「わぁあー! ああああーっ!」
唐突に、男は両手で頭を掻きむしりながら奇声を上げる。不意を突かれ、凜は体を震わせた。
「元暴力団員の覚醒剤精神病患者だ。覚醒剤の密売をしていたが、そのうちに自分でも使うようになって、最終的に重度の覚醒剤精神病になった」
「……皮膚をつねっているのは寄生虫妄想ですか?」
寄生虫妄想は皮膚の下に虫が這っているような妄想に囚われるもので、覚醒剤精神病の症状としてたびたび認められる。
「そうだ。覚醒剤の使用歴が長いため、治療に対する反応が悪い。ほぼ一日中ああやって虫を取ろうと皮膚をむしっているんだ」
説明しながら影山は廊下を進んでいく。
「このエリアには現在、三人の患者が入院している。二人は重症の覚醒剤精神病患者」
影山の後ろを歩きながら、凜は窓から部屋を眺めていく。『保護室3』では痩せた中年の男が、なにやら叫びながらベッドに横たわっていた。廊下の一番奥にある部屋の前で、影山は足を止める。
「そして、残りの一人が本日、私たちが面接を行う患者だ」
凜は『保護室5』と記された扉の窓から中を覗き込む。そこには若い男がベッドで体育座りをして本を読んでいた。どうやら、海外のミステリー小説のようだ。彼の表情は穏やかで、目には理知的な光が宿っており、その姿はこのエリアに入院している他の二人とはあまりにもかけ離れていた。自室でリラックスして読書を楽しんでいる若者にしか見えない。
「彼が……」胸の奥で再び鼓動が加速をはじめる。
「そう、彼が歌舞伎町無差別通り魔事件の犯人、白松京介だ」
低く押し殺した声で影山がつぶやくと、青年、白松京介は本から視線を上げてこちらを見た。
その顔に、はにかむような笑みが広がっていった。
2
「不起訴ですか?」
凜が聞き返すと、影山は「そうだ」と頷いた。保護エリアを出た二人は、閉鎖病棟の隅にある面接室に来ていた。患者との面接に使う、机と椅子だけが置かれた六畳ほどの殺風景な部屋。
「弓削君、刑法三十九条は知っているな?」
「……はい、知っています」
凜は刑法の中で最も有名であろうその条文を口にする。
「一、心神喪失者の行為は、罰しない。二、心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」
「その通りだ。精神疾患による幻覚や妄想等に囚われた結果として行われた犯罪行為を司法は罰しない。しかし、この条文に従って無罪や不起訴処分になった触法精神障害者の処遇については、刑法に全く規定はない。つまり、司法はその人々を押し付け続けてきたんだ」
「押し付けるというと、誰にでしょうか?」
「我々、医療者にだ」影山はわずかに唇の端を上げた。「無罪や不起訴になった触法精神障害者は多くの場合、精神科病院に措置入院になっていた。そして、その後は医療サイドに丸投げだ」
「丸投げ……」凜はその言葉をくり返す。
「そうだ。その後のことに、司法は関知してこなかった。触法精神障害者を入院させ続けるか、それとも退院させて社会復帰させるのか、その判断は全て治療に当たる医療者に一任されていた」
平板な影山の口調に凜は引き込まれていく。
「司法は触法精神障害者を自分たちの理解の外にある存在ととらえ、目を逸らし続けてきた。まるで汚いもののように、蓋をし続けていたんだ。結果、触法精神障害者への社会的な理解は進まず、彼らの孤立を深めた。それでは再犯率を下げることは難しく、誰もが望まぬ結果になってしまう」
抑揚のない影山の言葉から、触法精神障害者の処遇に対する怒りが滲み出す。
「白松京介は不起訴になると、先生はお考えなんですね」
「考えているというより、噂を聞いた。早く白松京介の不起訴処分を決定し、医療観察法に沿った対応をするよう、検察の上層部が圧力をかけているとね」
「なんでそんなことを? こんな重大事件なのに」
「重大事件だからだ」影山の口調に、皮肉っぽい響きが含まれる。「検察にとって最も避けたいのは、起訴したにもかかわらず無罪判決が出て、世間から大きな批判を浴びることだ。そのリスクが大きいケースでは不起訴処分で済ませ、お茶を濁したいと思っているんだ」
「じゃあ、今回の事件でも……」
「検察内部では不起訴処分にするのが既定路線だ。ただ、担当検察官が熱い男でね、どうにか起訴に持ち込みたいと息巻いている。四人も犠牲者が出ているからな。ただ、状況は不利だ。白松京介には精神科の通院歴もあるし、検察庁で行われた簡易精神鑑定では、鑑定医が『統合失調症による妄想ゆえの犯行』と判断している。だから、私に鑑定依頼が来た」
「だから……? 影山先生だと検察に対して有利な鑑定が出る可能性が高いからですか?」
影山は「いや違う」と、首を横に振った。
「私の鑑定が誰よりも正確だからだ。私が『犯行時に犯人は心神喪失状態だった』と診断を下せば、不起訴という判断に不満ながらも納得できると担当検察官は考えたんだ」
影山の答えに、凜は軽く目を見張る。血液検査や画像検査などを元に診断を下す内科などとは違い、精神科の診断は主に患者との面接によってなされる。しかし、患者が医療者に対して協力的とは限らない。それゆえに、一般的な疾患と比較して、精神疾患の診断は難易度が高かった。そのうえ、下した診断の根拠を他人に納得させるのも困難だ。どれだけの精神鑑定を行えば、どれだけ触法精神障害者と接してくれば、ここまでの自信を持てるというのだろう。
「さて、お喋りの時間はお終いだ」
影山が言うと、扉のノブが回る音が響いた。ゆっくりと扉が開いていき、その向こうに入院着姿の白松京介が姿を現す。凜の喉がごくりと鳴った。
「失礼します、影山先生」
穏やかに挨拶をしながら、白松は屈強な男性看護師に付き添われて部屋の中に入ってくる。
「こんにちは白松君、調子はどうかな」
影山が訊ねると、白松は机を挟んで対面の席に腰掛けた。
「とてもいいです。ありがとうございます。あの、こちらの先生は……?」白松が凜を見る。
「弓削凜君だ。今日から私の助手として、君との面接に参加させてもらう。問題ないかな?」
白松は何度かまばたきをしたあと、人懐っこい笑みを浮かべた。
「ええ、もちろんです。よろしくお願いします、弓削先生」
凜は慌てて「こちらこそ、お願いします」と頭を下げた。
「さて、面接をはじめようか」
影山が目配せをする。出入り口近くで控えていた看護師が部屋から出ていった。扉が閉まる重い音が響き渡る。急に酸素が薄くなった気がした。こんな狭い密室で殺人犯と対面している。しかも、手錠などの拘束具を白松はつけていない。緊張が凜の呼吸を乱していく。
「さて白松君、今日から事件についての話になる」
笑みを引っ込めた白松が「……はい」と頷くのを見ながら、凜はカルテやマスコミの報道で得た『歌舞伎町無差別通り魔事件』の概要を頭の中で反芻していった。