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2020.3.13

【ためし読み第1回】知念実希人『十字架のカルテ』「本屋大賞」3年連続ノミネート! 今、最注目の作家・知念実希人が挑む、犯罪者との究極の頭脳戦。ついに開幕![全3回]

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 プロローグ

 僧侶の低い読経が内臓を揺らす。線香の独特の匂いが鼻先をかすめる。

 重く濁った空気に居心地の悪さをおぼえたセーラー服姿の少女は、首をすくめながら目だけを動かして周囲に視線を送る。式場にぎっしりとならんだパイプ椅子には、喪服の男女が五十人以上座っていた。その顔は一様に険しく、ハンカチでしきりに目元を拭っている者も少なくなかった。

 息苦しさをおぼえて、少女は胸元に手をやった。去年、七十九歳で亡くなった祖父の葬儀に出席したが、その際とは比べ物にならないほどの哀しみと怒りが、この告別式の式場には充満している。

 顔を上げて、正面の祭壇に無数の花とともに飾られている遺影を見つめる。そこでは、丸眼鏡をかけた少女が少し恥ずかしそうに微笑んでいた。

 見慣れた笑顔。携帯のカメラを向けると、彼女はいつもあんなふうに、はにかんでくれた。

 ずっと隣にいた親友の写真が、この負の感情で飽和した空間に飾られていることが不思議だった。この数日間、現実感が希釈され、体に力が入らない。気を抜けば体が風船のようにふわふわと浮き上がってしまいそうだった。

 焼香がはじまる。そのとき、すぐ前の席に座る二人組の中年女性が声を抑えて話しはじめた。その声が耳に届いてくる。

「まだ十八歳だったんでしょ。来年から大学生だったっていうのに、かわいそうに」

「ワイドショーで見たけど、包丁でめった刺しにされたんだってね。なんであんないい子がそんな目に遭わないといけないのよ」

「ねえ、犯人ってたしか逮捕されたのよね」

「そうみたいだけど、テレビとかじゃ全然名前が出ないのよ」

「ええ? それってなんで?」

「なんかね、犯人が意味の分からないことを口走っているらしくて、頭の病気かなんかで裁判できないかもしれないとかなんとか……。だから、どこの誰かも公表できないんだって」

「じゃあ犯人は刑務所に行かないの? それどころか、誰が殺したのかも分からないってこと!?」

 声を大きくした中年女性に、周囲の人々から非難の眼差しが注がれる。

 そう、犯人が誰なのか分からない。中年女性たちが黙り込むのを眺めながら、少女は胸の中でつぶやいた。

 この数日間、ネットやテレビのニュースに必死に目を通した。しかし、犯人に関する情報を得ることはほとんどできなかった。まるで、姿の見えない怪物が親友の命を奪ったかのように。

 いったい『なに』が親友を殺したのか知りたかった。その正体を暴きたかった。しかし、自分にはその力がない。無力感が容赦なく少女の心を蝕んでいく。

 やがて、焼香の順番が回ってきた。少女は会場に来る前に必死におぼえた手順を頭の中でくり返しながら祭壇へと近づいていく。「この度はご愁傷さまでした」と親族席に一礼したとき、親友の母親の姿が目に入った。彼女は泣いていなかった。その顔には表情が浮かんでおらず、瞳からは意志の光が消え去っていた。

 魂が抜けたように機械的に会釈を返してくる彼女の姿は絡繰り人形を彷彿させ、泣きはらした顔をしている他の親族よりもさらに痛々しく見えた。

 親族席から目を背けた少女は、祭壇に近づいていく。焼香台の前に立ち、棺桶を覗き込んだ瞬間、頭の中にあった焼香の手順が吹き飛んだ。

 棺桶の小さな窓から、親友の顔が見えた。トレードマークの丸眼鏡を外し、いつも三つ編みにしている長い黒髪を解かれた親友が、穏やかな表情で目を閉じている。その姿は、ただ眠っているだけのように見えた。

 こんな小さな箱に閉じ込められて……。

 事件の知らせを受けてから、ずっと夢の中を彷徨っているかのようだった。いつも休み時間にくだらない話をして笑い合っていた親友が世界から消えてしまったことに、実感が湧かなかった。

 しかし、棺桶の中に横たわる親友の姿を見た瞬間、残酷な現実が刃となって胸に突き刺さった。

 背中に漬物石でも乗せられたような重みをおぼえ、体勢が前傾する。あやうく焼香台に向かって倒れこんでしまいそうになる。

 ああ、そうか。必死に踏ん張りながら少女は気づく。犯人が罰を受けないなら、あの子が殺された罪は私が背負わなければならないんだ。あの日、私が違う選択をしていたなら、彼女は死なずに済んだかもしれないんだから。強い後悔が胸を焼く。

 罪の十字架に圧し潰されそうになりながら、少女は目を固く閉じた。

 瞼の裏に、親友の姿が映る。いつも微笑んでいたはずのその顔には哀しげな表情が浮かび、丸眼鏡の奥の双眸から、責めるような眼差しがこちらに向けて注がれていた。

 

 第一話 闇を覗く

 1

 過剰なほど磨き上げられた白い廊下に革靴の足音が響き渡る。少し前を歩く白衣に包まれた細身の背中を眺めながら、弓削凜は胸元に手を当てた。掌に加速した心臓の鼓動が伝わってくる。

「緊張しているのか?」

 抑揚のない声に凜は顔を上げる。凜が所属する光陵医科大学精神科学講座の准教授であり、この病院の院長でもある影山司が、足を止めて振り向いていた。四十代半ばのはずだが、どこか鋭さを持つ整った顔は三十代でも通用しそうだ。ただ、かなり白髪が目立ち、遠目にはグレーにすら見える頭髪のせいで、総合的には年相応に見える。

「いえ、そんなことないです!」

 慌てて答える。凜も女性としては身長が高い方だが、影山はさらに長身のため、見上げるような姿勢になってしまう。影山はあごを引くと、すっと目を細めた。

「普段より声が高い。それに瞳孔が開き、呼吸も浅くなっている。緊張している証拠だ」

 見透かされ、凜は軽くのけぞる。

「深呼吸をするんだ。そうすれば、いくらか緊張もおさまる」

 小さく頷いた凜は、浅く速くなっている呼吸を必死にコントロールしていく。

 光陵医大附属雑司ヶ谷病院。東京都豊島区のはずれにあるこの病院は、大学附属病院としては珍しい精神科の専門病院だった。三百床の病床を誇り、様々な精神疾患の患者の治療に当たっている。

 光陵医大医学部を卒業後、二年間に及ぶ初期臨床研修を終えた凜は、今年の四月に光陵医大精神科医局に入局し、この雑司ヶ谷病院へ配属になっていた。

「精神科医には自分の心をコントロールする技術も必要だ。医療者の不安は患者に伝染する。この病棟のように不安定な患者が多い場所では、いつも冷静でいなさい」

「はい、分かりました……」

 答えながら凜は周囲を見回す。開放感のある広い廊下に、等間隔に病室の出入り口が並んでいる。一見すると、なんの変哲もない病棟。しかし、ここには一般的な病棟とは大きな違いがあった。

 閉鎖病棟。患者の多くが措置入院や医療保護入院など、強制的な形式で入院してきているのだ。そのため、開放病棟と呼ばれる一般的な病棟に比べ、症状の重い患者が多かった。

 近くにある病室の出入り口から初老の女性が出てきた。彼女は小声でぶつぶつとつぶやきながら、小刻みに足を動かして近づいてくる。焦点の合わない瞳が床を見つめていた。

「こんにちは、佐藤さん」

 機先を制するように影山が挨拶をする。口調には相変わらず抑揚がないが、どこか人を安心させるような柔らかさがあった。女性は足を止めると、緩慢に顔を上げる。影山は「調子はいかがですか?」と声をかけた。女性は不思議そうに二、三度まばたきをしたあと、にっと口角を上げた。

「ええ、いいですよ」

影山が「それは良かった」と頷くと、女性は会釈を返して背中を向け、病室へと戻っていった。

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