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2018.9.23
【第4回】ドラマ放送直前! 池井戸潤の大人気シリーズ、待望の最新刊『下町ロケット ヤタガラス』第1章[4]を無料公開中!
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この秋、最注目のドラマといえば、何といっても「下町ロケット」(TBS日曜劇場)だ。原作は池井戸潤原作の国民的人気シリーズで、累計部数は300万部を突破している。7月に刊行したドラマ原作でもある『下町ロケット ゴースト』に続き、早くもそれに連なる最新刊『下町ロケット ヤタガラス』の刊行が決定。9月28日の発売を前にひと足早く、第1章を特別連載!「宇宙から大地」編のクライマックスや如何に!?
第1章 新たな提案と検討[第4回]
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四月下旬の北海道の空気は清冽で澄み渡り、微かな冬の名残りすら感じさせた。
札幌駅からタクシーでほんの数分のところにある北海道農業大学は、広大な敷地を擁する旧帝国大学の流れを汲む一大学府である。
緑の多いキャンパスに点在する校舎の間には、カフェやレストランといった飲食店、広場や小川まであった。その広さ故、学生たちの移動は、もっぱら自転車だ。いま佃と財前を乗せたタクシーはその敷地内を走る道を往き、
「突き当たりに見える校舎で止めてください」
財前の指示で止まったのは、重厚感のある古い煉瓦造りの建物の前であった。
後部座席から降り立った佃が見上げたのは、野木博文が研究室を構える大学院棟である。
三階にある野木の研究室には、数人の学生がいた。海外からの留学生らしい姿も混じっている。ドアも窓も開放したままで、壁を埋めた書籍の匂いに、からりと乾燥した北の空気が入り混じっていた。
「ちょっといま実験農場に出ていて戻りが遅れています。少々お待ちください」
アジア系大学院生のたどたどしい日本語の説明に礼をいい、案内された奥の部屋で待つ。
五分ほど待っただろうか、「ああ、お待たせしました。すみません」、詫びの言葉を口にしながら入室してきたのは、スラックスにワイシャツ姿の男だ。
「いやあ、久しぶり」
満面の笑顔を浮かべた野木は、そういって右手を差し出した。「音信不通にしてしまって申し訳ない。よく来てくれたな、佃」
「こちらこそ、連絡しなくてすまん。あれからいろいろあって、実はいま家業の会社を継いでるんだ」
「そうなんだってな。研究所から離れてしまったのはぼくとしては残念だが、すばらしい会社だそうじゃないか」
佃のことを話してくれたという共通の友人の名前を出す。
「いや、まだまだだよ」
佃はいって、話題を本題へ向けた。「オレのことなんかより、野木、凄いじゃないか。実はこっちも財前さんから話を聞いた後にネットで調べてみたんだ。素晴らしい研究だと思うよ。財前さんが目をつけるのも当然だと思った」
「お前にそういってもらえるだけでうれしいよ」
野木は謙遜し、財前に顔を向けると、「すみません。私の態度が煮えきらないばかりに二度も来てもらって」、そう詫びた。
「いえ、とんでもない。こちらこそ厚かましく押しかけまして」
頭を下げた財前に代わり、
「もう聞いたと思うが、実はウチの会社で無人農業ロボットのエンジンとトランスミッションを供給することになったんだ」
佃が言葉を継いだ。「この前話を聞いてから、農業についてオレもいろんな勉強をして、今回の事業がいかに日本の将来に寄与するか改めて気づかされた。同時に、野木教授の─」
佃はあえて肩書きで野木を呼んだ。「研究がいかに有意義なものであるかを学んだんだ。この事業が軌道に乗れば、農業の未来に貢献することができる。一緒にやってくれないか」
「まあ─そうだなあ」
野木は曖昧にいい、横顔を見せた。
「何かあるのか」
その態度に財前と目を見合わせ、佃は問うた。「もし、我々で解決できることならいってくれ」
「いや、そんなのはないよ。単にぼくの気持ちの問題だ」
その気持ちの問題がなんなのかわからない。
「産学連携とか、そういうビジネス構造が問題だということか」
もしやときいた佃に、「まあ、そんなところかな」、というこたえだ。
実際、産学連携ビジネスでトラブルになることは珍しくない。しかし、今回の相手は帝国重工だ。帝国重工を信用できないのなら、他のどんな会社だって信用に値しないと言い切れるほどである。
「それより、せっかく来てくれたんだ。ぼくの研究を見てもらえないか」
野木がいった。「実はいま準備してきたところだ」
どうやら遅れてきたのはそのせいだったらしい。
「ぜひ、見せてくれ。楽しみにしてきたんだ」
野木が案内したのは、校舎を出て五分ほど歩いたところにある実験農場であった。
からりと晴れ上がった春の日差しの下、何も植えられていない、ただ土くれだけの畑が拡がっている。
風が、強かった。
農場の乾いた土を舞い上げていく。その風に吹かれながら、舗装していない農場内の道路に、いま佃たち三人は立っていた。
「お願いします」
スマホを取り出した野木がどこかに電話をかけて指示を出し、佃たちを振り向いた。「あそこに建物があるでしょう。あれが格納庫なんです。ちょっと見ててください」
農場の片隅にある建物を野木が指さしたとき、風の音に混じって微かなエンジン音が聞こえてきた。建物の入り口は開け放してあるが、佃たちのところからは中の様子は見えない。
やがて─。
その建物の中から赤いトラクターが現れ、佃は思わず感嘆の声を上げた。
その運転席には誰も乗っておらず、完全に無人だったからである。
格納庫を出たトラクターは、農場へと続く農道を時速二十キロほどのスピードで走行しはじめている。
「格納庫から出て、前方の道を直進した後、この農場の外周にあたる農道を走るようにプログラミングしてある」
野木が説明した。
「指示はパソコンで?」
直進後数十メートル走ったところで外周道路へと右折したトラクターを見ながら、佃が尋ねた。
「さっきいた研究室からウチの学生がパソコンで管理してるんだ。今回は、おふたりの視察されるタイミングに合わせてスタートさせたんだが、スタート時間は予約することもできる。その時間になると、トラクターは自動的にエンジンがかかり、格納庫から出て農場まで行き、作業をはじめる」
「当然、夜でも?」
佃が問うた。
「夜でも。雨の日でも」
農場の外周を回ってきたトラクターが佃たちのいる農場の一本道に入ってきた。車体の色でわかっていたことだが、ベースになっているのはヤマタニ製の最新型トラクターであった。搭載されているエンジンはボンネットを開けてみるまでもない。
「これ、ウチのだ」
佃の発言の意図はすぐには伝わらなかったか、野木の問うような眼差しが向けられる。エンジン音が一層大きくなる中、佃は声を張り上げた。
「このエンジン、作ってるのは、ウチだ」
野木の目が見開かれるのがわかった。
「ヤマタニに供給してる。カタログでは説明されてないけどな」
佃製作所で開発している「ステラ」だ。
「こんなところで、繫がってたのか」
感心したような野木の口ぶりには、ともすると感動といってもいいような情感がこもっている。
三十余年前、佃と野木は、机を並べ、同じ講義を受けていたこともある友人同士だった。片や研究者の道を諦めて家業を継ぎ、片や農業分野での研究を続け、遠く離れた北海道で大学教授の職にある。一見なんの繫がりもなく、連絡も途絶えて久しいふたりが、それと知らず一台のエンジンで繫がっていたのだ。
「人生ってのはおもしろいもんだ」
これも縁だと佃は思う。世の中には、奇遇としかいいようのない出会いが数多くある。そうした偶然には、科学的な証明はされていないものの、なんらかの因果関係が存在しているのではないか。時々、佃はそんなふうに思うこともある。
無人トラクターの実演は、これからが本番であった。
佃たちの前を通過したトラクターは農場の端までくると正確に向きを変え、畑の中へ進入していく。後方に接続された作業機の金属爪が回転しはじめると同時に、予め設定された深度にまで下がりはじめた。
「精度に注目してくれ」
視線をトラクターの動きに集中させた佃に、野木がいった。「準天頂衛星による測位精度が上がったおかげで、誤差は三センチ以下。ほとんどブレがなく安定してるだろ。実際に作物が植えられている畑や田んぼでも、畝を乗り越えたり、苗を踏み倒したりすることもない」
「ヤタガラスが打ち上げられる前とどのくらい違うんだ」
佃の質問に、「まったく違う」、というきっぱりとした返事があった。
「外部からの補正信号なしにGPSだけに頼ってたときには、十メートルも蛇行したりしてたから。それに比べれば、この精度は夢のようだよ」
誤差十メートルから数センチへ。まさに、準天頂衛星ヤタガラスによる測位精度の向上がもたらす恩恵だ。
「実用性ということではどうなんだ」
「まだ詰めるべきところは残っているが、ほぼ実用化段階といっていいと思う」
トラクターは佃たちが見ている前で畑を五往復ほどしてプログラミングされた作業を消化すると、再び農道を通って出てきたのと同じ格納庫へと戻っていった。
絶えまなく聞こえていたエンジン音が消え、あたりは再び風の音に占められた。
「なあ教えてくれないか、野木。何を躊躇してるんだ」
佃はきいた。「実用化が視野に入ってるんなら、前に進むべきだろう。これだけの技術だ。もしかして、我々だけじゃなく、いろんなメーカーから話を持ち込まれて決めあぐねているとか、そういう事情か」
「いや、そんなんじゃないさ」
晴れ渡った空を見上げた野木は、少し淋しそうな顔をして、「すまんな」、とまた詫びた。
野木の決断を逡巡させているものが何なのか、佃には想像もつかない。だがいま、目の前で何らかの葛藤を抱えているのは、屈託もなく笑い合い、飲み、時に夜ふけまで真剣な議論を戦わせていたあのときの野木ではなかった。三十余年もの間に、野木は野木で様々な苦労を重ねてきたのだろう。
これから先、野木をどう説得すればいいのか考えあぐねる佃に、
「ところで、ふたりとも今日帰るのか」
野木のほうからきいてきた。
「いや。今日は一泊して、明日ゆっくり帰ろうと思ってる」
「だったら、今晩メシでもどうだろう。財前さんも」
「よろしいんでしょうか」
恐縮する財前に、
「構いません。ビジネスの話はビジネスの話。こうして私の研究に興味を抱いてくれることについては本当に嬉しいと思ってるんです。佃の近況も聞きたいし」
そういうと、思い出したように野木がきいた。「そういえば、沙耶ちゃん、元気か」
沙耶は佃の元妻で、つくば市にある政府機関で働く研究者だ。研究者同士の結婚であったが、佃が宇宙科学開発機構を去り家業を継いだのがきっかけで別々の道を進むことになった。
「実は別れた」
はあっ、と佃は短く嘆息していった。「よりによって、それを聞くか、お前」
「そうだったか。すまんすまん」
野木が頭のうしろに手をやって、苦笑いを浮かべる。佃にとっては不本意ながら、それで野木との距離はまた学生時代のそれにぐんと近づいた気がした。
(つづく)
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