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2018.9.21
【第2回】ドラマ放送直前! 池井戸潤の大人気シリーズ、待望の最新刊『下町ロケット ヤタガラス』第1章[2]を無料公開中!
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この秋、最注目のドラマといえば、何といっても「下町ロケット」(TBS日曜劇場)だ。原作は池井戸潤原作の国民的人気シリーズで、累計部数は300万部を突破している。7月に刊行したドラマ原作でもある『下町ロケット ゴースト』に続き、早くもそれに連なる最新刊『下町ロケット ヤタガラス』の刊行が決定。9月28日の発売を前にひと足早く、第1章を特別連載!「宇宙から大地」編のクライマックスや如何に!?
第1章 新たな提案と検討[第2回]
「なかなか、うまく行きませんね」
「志乃田」を出、駅の改札へ消えていく島津を見送ると、山崎が嘆息した。
「まったくだ」
佃も応じる。
「よりによってダイダロスと資本提携を組むなんて。いったい、伊丹さんは何を考えてるんだろう。挙げ句、シマさんまで追い出しちまって」
山崎はむしゃくしゃした様子で舌打ちしたかと思うと、どっと重い吐息を漏らした。「財前部長がいなくなり、トノさんがいなくなり、そして今度はシマさんまで……。なんかこう、ガックリ来ちまいますね」
帝国重工で長く大型ロケット打ち上げを仕切ってきた財前が現場を去り、新部署に異動していったのは先月末のことである。大型ロケット打ち上げ部門において佃製作所は、強力な後ろ盾を失ったも同然であった。
また、佃製作所の番頭にして、佃の信頼できる相談相手だった〝トノ〟こと、殿村直弘が、家業の農家を継ぐため佃製作所を退職したのもまたこの三月のことである。
「それに、伊丹さんがダイダロスと組んだってのは、どうにもイヤな予感がするんですよね」
山崎は右手で顎のあたりをさすりながら、疑わしげに目を細めた。「ダイダロスのことだ、きっと何か仕掛けてきますよ」
急速に頭角を現し、小型エンジン業界に確実な地位を築きつつあるダイダロスは、いまや佃製作所最大のライバルといっていい存在になろうとしている。
「おそらくな」
ため息まじりに答えたものの、正直なところ、佃は不安であった。
そのダイダロスとギアゴーストの提携は、いわば、ギアゴーストと佃製作所の関係を否定するのと同義ではないかと疑わしいからである。
ギアゴーストのトランスミッションには、コンペの末に勝ち取った新バルブを納品する計画になっているが、こうなってみるとその実現すら予断を許さないものに思える。
重要な仲間を失い、さらに、トランスミッション事業の足がかりとして向き合っていたはずの取引先、ギアゴーストに─いや、社長の伊丹の変心に翻弄される。
「こんなときにトノさんがいてくれたらなあ」
山崎が思わず嘆くのも無理からぬことだが、だからといって為す術もなく指をくわえて状況に甘んじているわけにもいかない。
生きていかなければならないからだ。
宇都宮市内にある工場も含めれば三百名近い社員を、佃は抱えている。彼らと、その家族の幸せは、ひとえに佃航平の双肩にかかっているのである。
不安に苛まれようと、いかに不利な状況だろうと、その状況を打開できなければ、会社を守り、ひいては社員たちの生活を守ることはできない。経営者に求められているのは、悲嘆や後悔ではなく、常に先を見越した行動だ。
「いっぺん伊丹さんに会ってみるか……」
五反田方面からの電車が到着したのか、通勤客が改札から吐き出されてくる。その流れに逆らうように立ち、佃は誰にともなく呟いた。
3
佃航平が、ギアゴーストの伊丹の携帯に連絡を入れたのはその翌朝のことである。
「ここのところ、ご無沙汰でしたので、ご挨拶に伺いたいと思いまして」
そう切り出した佃に、伊丹はしばしの沈黙をもって答えた。
「まあ、そんなに気を遣っていただかなくても」
気乗りしない返事がある。
「そうおっしゃらず。今日明日で、どこか時間、ありませんか。会社にいらっしゃるのでしたら、少しだけ顔を出します」
逡巡が電話から伝わってくる。それはそうだろう、会えばダイダロスとの資本提携の話が出るかも知れない。伊丹は、その話が佃の耳に入っている可能性をすでに疑っているはずだ。
裏切り、裏切られていながら、お互い親密な取引先としての体裁を保っているというのも気持ちのいいものではなかった。
「今日の夕方でしたら……」
どこか面倒そうな伊丹の返事に、違和感を拭えない。
昨年、ギアゴーストが特許侵害で存続の危機に立たされたとき、それを救済したのは他ならぬ佃たちだ。
その誠意を反古にするのなら、本来、伊丹のほうから仁義を切るのがスジである。
こんな男だったか─。
唐突に、そんな思いに囚われつつ、
「何時ならいいですか」佃はきいた。「それに合わせますので」
「じゃあ、五時で。ただ、あまり時間がないので三十分ほどでお願いできますか」
下町で生まれ育ち、町工場を経営している父親の背中をずっと見てきた男だ。佃の知る伊丹は、ぶっきらぼうだが、人情味のある男であったはずだ。
なのに、いま電話の向こうから伝わるこのよそよそしい息遣いはどうだろう。
「ではその時間にお伺いしますのでよろしくお願いします」
電話を切った佃は、しばし社長室から見える大田区界隈の住宅街を見つめ、陰鬱な吐息を漏らしたのであった。
大田区下丸子にあるギアゴーストまでは、クルマで二十分ほどの至近なのに、その距離がやけに遠く感じられた。
社用車のハンドルを握るのは山崎だ。佃はその助手席で、口数も少なく、これから予定されている伊丹との話し合いに思いを馳せている。
「シマさんからの情報、先方がいうまで黙ってるべきですかね」
同じく伊丹との対談のことを考えていたらしい山崎がきいた。ダイダロスとの資本提携の話である。「情報源を知られたら、シマさんに迷惑がかかるかも知れません」
「とりあえず、相手の出方を見ようや。いずれにせよ聞くことになるだろうがな」
佃はこたえる。「もしかしたら、オレたちが納得できるような理由があったのかも知れないし」
現実にそんな可能性があるとも思えないが、一方で、そうであって欲しいとも、佃は思うのである。
このときになって佃はようやく、自分の中にある、もやもやの正体がわかったような気がした。
結局のところ、佃は伊丹大という男に、そしてギアゴーストという会社にあまりに惚れ込んでいたのだ。
もしこれが他の取引先であったなら、佃のことだ、烈火の如く怒り狂ったに違いない。だが、そこまでできないのは、同じ下町育ちとして、心のどこかで伊丹のことを信じたいという一縷の思いが断ち切れないからだ。
むしろ、怒り狂うことができればそのほうが楽なのかも知れない。だが、そうできないからこそもどかしく、摑み所もなく宙ぶらりんな感情を持てあますことになるのだろう。
やがて、フロントガラスの向こうに、特徴的な社屋が見えてきた。ギアゴーストは伊丹の父親の代からあるという老朽化した建物を改造し、古くてモダンな、不可思議な印象のオフィスを大田区の下町に構えている。
裏手にある来客用駐車場に社用車を入れた。正面玄関のガラス戸を入った土間にはトランスミッションを展示したショーケースが並び、奥の小ぢんまりしたオフィスに社員たちが机を並べているのが見える。佃らが入ってきたのに気づいて立ってきた若手社員が、応接室に案内してくれた。ガラス戸でオフィスと隔てられただけの部屋である。見れば、つい先日まで島津が座っていた場所に、いま見知らぬ男が座ってパソコンのモニタを睨んでいた。
「もうシマさんの代わりがいるのか」
呟いたのは佃ではなく、山崎のほうだ。「代わりを見つけた上で、シマさんを追い出したってことですかね」
応接室で待たされること数分、「お待たせしました」、というひと言とともに伊丹が入室してきた。
相変わらず無愛想で、一見とっつきにくい印象はそのまま、佃と山崎の向かいにある肘掛け椅子にどっかと腰を下ろす。
「ここのところご挨拶していませんでしたので。その後、ヤマタニへの新トランスミッションの売り込みがどうなったか、状況をお伺いしようと思いまして」
佃は切り出した。
ヤマタニは、佃製作所とも親交が深い大手農機具メーカーである。ギアゴーストは、ヤマタニの新機種向けにトランスミッションの供給を狙っており、以前、苦労の末に佃がコンペで落としたのはそのトランスミッションのためのバルブであった。
いくらコンペで勝っても、ギアゴースト製トランスミッションがヤマタニに採用されない以上、佃の出番はない。ところが─。
「あ、まだ担当から連絡してませんでしたか」
伊丹はしまったな、という顔をしてみせた。「実はヤマタニの経営計画が変わりまして、あのトランスミッションそのものが棚上げになりそうなんです」
「いや、そんな話は─」
あまりのことに佃が絶句すると、「まあ、そういうことですので、せっかくコンペに参加していただいたんですが、期待にはこたえられそうにないかなと」
伊丹の口調は淡々としていた。
「しかし、それでは御社にとっても打撃でしょう。トランスミッションの開発費もさることながら、農機具業界に参入するという目論見が外れるわけですし。なんとかならないんですか」
問うた佃に、
「いや、ウチは別な形で参入することになりますので」
伊丹は意外なことをいった。
「あの、別な形とは、いったい……」
問うた山崎に、「それはまだ内緒でして、詳しくはちょっと」、と言葉を濁す。
「ヤマタニの新たなラインナップじゃないとすると、既存のトラクターとかのトランスミッションを受注されるということですか」
「いや、新しい農機具ですよ」
意味がわからない。
「それに、今度開発されたトランスミッションを投入されるんですか」
「まあ、そういうことになりますね」
伊丹のこたえは、佃の内面に波を立てた。
「であれば、うちのバルブを使っていただけませんか。新しい農機具というのが、どんなものかはわかりませんが、コンペまでして認めていただいたんですから」
「それは無理ですね」
伊丹はさらりといった。「そっちはもう、大森バルブさんで決まってますので」
我が耳を疑うとはこのことだ。佃は思わず顔色を変え、気づいたときには、
「それはないんじゃないですか」
というひと言を発していた。「伊丹さん、ウチは御社のためにいろいろお手伝いしてきたじゃないですか。訴訟の件もそうです。なのに、せっかく開発したバルブは使い途がなくなった、新たなトランスミッションにはライバル企業に発注済みで使えないだなんて。あんまりですよ」
「ライバル企業って」
伊丹は、小さな笑いを噴き出した。「大森バルブは御社のライバルとはいえないでしょう。あっちは、押しも押されもせぬ大手企業ですよ」
「ちょっと待ってください。御社は前回のコンペでウチのバルブを選んでくれたじゃないですか」
「前回のコンペでは、ね。ただ、今度は話が別ですから」
取り付く島もない返事である。
「伊丹さん、ウチがどれだけ御社との取引に期待していたかわかりますか。その話が頓挫しかかっているんなら、それだけでもすぐに知らせていただきたかった」
腹の底で熾火のように燃えはじめた怒りを抑えた佃に、
「それは、御社の事情ですよね」
にべもない返事を、伊丹は寄越した。「まだ正式な決定でもないのに途中経過を知らせろとおっしゃるんですか。担当が連絡しなかったかも知れませんが、そこまでの義務はないでしょう。他の下請けでそんなことをいってくるところはありませんよ」
佃製作所など下請けの一社に過ぎないと、伊丹は切り捨てたのだ。
「一緒にやっていけると思って、この前の訴訟も力添えしたんですよ、伊丹さん」
「その節はありがとうございました」
両手を膝につき、伊丹はお座なりに頭を下げた。「ですけど、それはそれとお考えください。ウチにはウチのビジネスモデルがありますから」
「そのビジネスモデルに、弊社が入り込む余地はないと、そういうことでしょうか」
「申し訳ないですが、いまのところはありませんね」
伊丹はいうと、そういうことですので、と話を切り上げようとする。
「ちょっと待ってください、伊丹さん─」
いまにも腰を上げそうな伊丹に、そのとき佃は切り出した。「ダイダロスと資本提携したって、本当ですか」
すっと感情を消した伊丹の目が、佃に向けられた。
「どこでそれを?」
「あるところから、小耳に挟んだもので」
佃はこたえた。「まさか、そんなことはされないですよね。ダイダロスはウチのいわばライバル企業ですよ。あなたは先ほどビジネスモデルとおっしゃいましたが、ビジネスは人がやるもんです。人として、そんな裏切りのようなことをされるとは、俄かには信じられないんですが」
じっと佃の様子をうかがっていた伊丹から、ふっと笑いが洩れた。
「さては、島津かな。余計なことをいったのは」
「こういう話は、いろんなところから洩れてくるものですから」
あえてぼやかした佃に、伊丹は息をすうっと大きく吸い込み、吐き出した。
「そこまでご存じなら別に否定はしません。その通り。ウチはダイダロスと資本提携しました。これからは、ダイダロスさんと業務面でも協力してやっていきます。もし、ウチとの業務提携を期待されていたんでしたら申し訳ないですが。ウチも生き残っていかなきゃならないんで」
「それは、ウチとでは生き残れないと、そういうことでしょうか」
まっすぐに伊丹の目を見据え、佃は問うた。
「まあ、そういうことかな」
「ふざけるのもいい加減にしてくださいよ、伊丹さん」
何かがはじけ飛ぶような感覚と同時に、佃は口を開いていた。「いままで長いこと生きてきたが、こんなふうに裏切られたのは初めてだ。いまここに至るまで、少しでもあんたのことを信じようとしてきた自分が情けない」
「それは失礼しました」
感情のこもらない声でいった伊丹は、面倒くさそうに盛大なため息をついた。「どう思われようと結構。ともかく、そういうことですので。もうよろしいですか?」
そういうとさっさと立ち上がり、伊丹は一方的に話を切り上げたのだった。
(つづく)
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