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2018.9.20

【第1回】ドラマ放送直前! 池井戸潤の大人気シリーズ、待望の最新刊『下町ロケット ヤタガラス』第1章[1]を無料公開中!

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【第1回】ドラマ放送直前! 池井戸潤の大人気シリーズ、待望の最新刊『下町ロケット  ヤタガラス』第1章[1]を無料公開中!

この秋、最注目のドラマといえば、何といっても「下町ロケット」(TBS日曜劇場)だ。原作は池井戸潤原作の国民的人気シリーズで、累計部数は300万部を突破している。7月に刊行したドラマ原作でもある『下町ロケット ゴースト』に続き、早くもそれに連なる最新刊『下町ロケット ヤタガラス』の刊行が決定。9月28日の発売を前にひと足早く、第1章を特別連載!「宇宙から大地」編のクライマックスや如何に!?

 

第1章 新たな提案と検討[第1回]

 


 駅に続くだらだらとした坂道を上っていく島津裕の背中が次第に小さくなっていく。
 やがて建物の陰になって見えなくなったとき、佃航平は静かに窓を離れ、執務用デスクの椅子をひいて、ゆっくりと腰を下ろした。
 大田区上池台の高台にある佃製作所、その社長室である。
 番頭の殿村直弘が自己都合で退職し、帝国重工の良き理解者であった財前道生も異動してしまったばかりだ。
 そしてまたひとり、大切な人が佃のもとを去ったのである。
 言い訳もせず、深く傷つき、途方に暮れて─。
 その心境を察すると、やるせなかった。
 もっと親身になって話を聞いてやれなかったのか。励ましてやることはできなかったのか。
 「ダメだなあ、オレは」
 舌打ちした佃は、右手を額に押し付けて顔をしかめる。盛大なため息をつき、しばらく天井を仰いでいたが、やがて諦めたように視線を下ろしたとき、おや、とその目を止めた。
 応接セットのソファの足下に置かれた、小ぶりなトートバッグを見つけたからだ。島津がよく提げている、かわいらしいクマがプリントされたものだ。
 忘れ物であった。
 「シマさんらしいな」
 思わず笑みをこぼした佃は立ちあがり、再び窓から道路を見下ろす。
 前回の事件以来、佃製作所の社員たちは島津のことを親しみを込め、「シマさん」と呼ぶようになっていた。佃もまた同じである。
 窓辺に立ち、さっき彼女が消えていったほうに目を凝らした。
 住宅街に、春らしい柔らかな夕日が射している。
 その中を、再びこちらに向かってやってくる島津の姿が現れたのはそのときであった。
 忘れ物に気づき、どこか慌てた様子で足早にやってくる島津の表情には、思わず微笑みたくなるような人なつこさがある。
 こういっては失礼だが、とても「天才」と呼ばれるエンジニアには見えないのであった。
 「ごめんなさい。忘れ物しちゃって」
 やがて再び社長室に現れた島津は、佃が差し出したトートバッグを受け取るとぺこりと頭を下げた。
 「じゃあ、また」
 帰ろうとする彼女を、「シマさん」、佃は呼び止めた。
 「せっかくだし、ウチの連中に会ってやってくれませんか」
 「いえ、それは……」
 島津は表情を変え、右手で佃を制した。「私、佃製作所さんの開発フロアに入る資格ありません。いまはもうギアゴーストの社員じゃないし、それに─裏切っちゃったし」
 ギアゴーストはトランスミッションのメーカーで、佃製作所にとって重要な取引先になる─はずであった。
 「それはもう、いいじゃないですか」
 「いや、でも……」
 俯いた島津に、佃はいった。「商売ってのは人がやるもんだ、シマさん。世の中には、理解できないことも思うようにならないこともあるさ。でもね、それはそれで受け入れていくしかないんじゃないですか。今度のことはシマさんが悪いわけじゃない。私はそう思ってるよ。きっとウチの連中もそう思うはずです。さあどうぞ」
 島津が、何かをふっきるように顔を上げた。
 「じゃあ、ちょっとだけ。皆さんにご挨拶させてください」
 「どうぞどうぞ」
 先に立って歩き出した佃は、そのときふと足を止め、「実はね、面白いものもあるんだ」
 そういって悪戯っぽい笑みを浮かべてみせたのである。
 「あれっ、シマさん─?」
 三階フロアに上がった途端、めざとく見つけたのは、技術開発部長の山崎光彦だ。トレードマークの爆発したような髪型に満面の笑みを浮かべて近づいてくると、
 「どうしたんです、突然。おひとりですか」
 そう問うた。島津の来訪に気づいたトランスミッション開発チームの軽部真樹男、立花洋介、加納アキら、馴染みの社員たちも集まってきた。
 「ええ、そうなんです」
 笑みを浮かべつつも、少々伏し目がちになった島津は、ちらりと助けを求めるように佃に視線をむける。
 「実はな─」
 いいかけた佃は、「私から説明しちまって、いいですか」、と島津の了承を得、経緯について話し始めた。
 諸般ののっぴきならない事情によって、佃がトランスミッション分野への進出を決めたのはかれこれ二年ほど前のことである─。
 新興のトランスミッションメーカー、ギアゴーストはそのための大切な取引先であり、同分野進出の足掛かりとなるはずの会社であった。
 だが、ギアゴースト社長の伊丹大は、どういう事情か佃製作所のライバルエンジンメーカー、ダイダロスとの資本提携を決め、経営方針の対立から、ついに共同経営者の島津裕を社外へ追いやったのである。
 この日島津が佃製作所に来たのは、ギアゴーストの方針変更と自らの退職を報告するためであった。
 佃製作所にとって、衝撃以外の何物でもない話だ。
 佃が語って聞かせるうち、腕組みをして表情を消した軽部は頰を膨らませて天井を向いてしまった。実直で生真面目な立花は、ただ真剣な眼差しで島津を見つめている。アキは話の成り行きに唖然としつつも、眉を下げ、気の毒そうな瞳で佃と島津を交互に見ていた。他の社員たちも、それぞれにショックを受け、ずんと重苦しいほどの沈黙の中にいる。
 「みんな、本当にごめんなさい」
 佃があらかたの話を終えたとき、島津がそういって深々と頭を下げた。
 返事はない。
 島津に怒りを持てあましているのではなく、そこにわだかまっているのは、この理不尽な成り行きに対する疑問と戸惑いに違いなかった。
 「シマさんのせいじゃないじゃないですか」
 アキのひと言が、島津の顔を上げさせた。「シマさんは私たちのために戦ってくれたんですよね。そのために、もし会社にいられなくなったんだとしたら、謝んなきゃいけないのは、むしろ私たちのほうかも知れません」
 「いや、そんなことないから」
 島津はあわてて顔の前で手を横に振った。「今度のことは、私の力不足が招いたことだと思います。あんなにウチのこと心配してもらって、いろんなこと助けてもらったのに、こんなことになっちゃうなんて」
 「シマさん」
 佃はハンカチを取り出した島津に声をかけた。「こうして、言いにくいこと言いに来てくれてさ。それが、やっぱりシマさんだよ。今回のことは残念だけども、こういうこともあるって。仕方ないじゃないか」
 何人かの社員たちが頷いている。その場のみんなが佃と同意見であることは聞くまでもなかった。驚いたことに、ひねくれ者の軽部までもが、目を潤ませて島津を見つめている。
 根っこは良い奴らばかりだ。
 改めてそんなことを思った佃だが、「シマさん、これからどうするんですか」、とそのとき真剣な問いを投げたのは立花だった。
 「まだ決めてないよ。辞めたばっかだもん」
 淋しげに笑ってみせた島津に、
 「だったら、オレたちと一緒にやりませんか。お願いします」
 佃も驚くべき提案を、立花はしてみせた。
 「おい、立花。お前、いきなりそれは─」
 制そうとした佃をさらに遮り、
 「お願いします」
 新たにあがったひと言が佃を黙らせた。アキだ。真剣そのものの顔で、島津を見ている。「私、シマさんと一緒に仕事したいです。お願いします」
 直球すぎるほどの思いを投げられた島津は、反射的に言葉を失ってしまったかのようだ。
 「まあ待て、お前ら」
 佃が割って入った。「社長を差し置いてそういうことをいうんじゃないよ。それより例のやつ、シマさんに見てもらおうや」
 話を変えた佃に、思わず涙ぐんでいた島津が振り向いた。
 「例のやつって─」
 「まあ、どうぞ」
 佃が先に立ってフロア奥へと案内する。
 「これは……」
 フロアの一隅で立ち止まった島津は、作業台に置かれたそれに目を奪われたように立ちすくんだ。
 照明の明かりを受けて銀色に輝いているのは、組み立て途中のトランスミッションだ。
 「このトランスミッション─」
 一旦覗き込んだ島津が驚いた顔を上げた。「佃さんのオリジナルですか」
 「作ってみたんだ」
 佃はいった。「ただ手を拱いているだけじゃ、何も進まないから」
 島津は興味津々といった様子で、角度を変えたりしながらトランスミッションを覗き込む。それは農機具用トランスミッションであった。
 「ギアゴーストでシマさんが設計したものをちょこっと参考にさせてもらったんだけど。悪くないだろ。一応、知財とかはチェックしてある」
 軽部の指摘に、
 「いいよ。とってもいいと思うな」
 島津は、トランスミッションに視線を注いだまま真顔で答えたものの、はっと顔を上げた。「あ、でもこれ、佃製作所の社外秘じゃないの?」
 佃が笑って首を横に振る。
 「シマさんに見てもらいたかったんですよ。何か意見があったらいってやってもらえませんか。みんなトランスミッションの知識に飢えてるんだ。なんとか良い物を作りたいと日々格闘してる」
 佃の傍らでは、立花やアキたちが真剣な表情で島津のコメントを聞き漏らすまいと待ち構えている。
 「そっか。そういうことなら─」
 たちまち島津から技術的な質問が発せられ、その場でトランスミッション開発チームとの活発な意見交換が始まった。
 島津裕は、かつて帝国重工に在籍していた頃、天才と呼ばれた技術者だ。
 その発言には打算も慢心もなく、あるのは、トランスミッションに対する深い愛情と理解、そして技術への飽くなき探究心のみである。一言一句を細大漏らさず聞き入っている立花たち若手技術者にとって、こうした経験はめったに得ることのできない貴重なものに違いなかった。
 だが─。いま彼らの背後に立ち、盛り上がる議論を聞きながら、佃は胸に込み上げてくる憤りを持て余していた。
 これほどまで技術を愛し、ものづくりに人生を捧げてきた者から、その才能を発揮する場を奪ってしまう。
 帝国重工しかり、そしてギアゴーストしかり。いままで島津が身を置いた組織は、結局のところ、島津をひとつの歯車としか評価せず、消耗品として使い捨てたのだ。
 自分たちの都合、プライド、利益─そこにどんな事情やしがらみがあったにせよ、あまりに非情な仕打ちではないか。
 「会社や組織で、うまくやってくってのは難しいよなあ」
 しみじみ佃が呟くと、傍らの山崎が真剣に頷くのがわかった。山崎もまた、同情の眼差しを島津に向けている。
 「我々にとって、ものづくりの現場を奪われるってのは存在を否定されたも同然ですからね」
 山崎は、眉をハの字にした顔を佃に向けた。「社長、なんとかしてあげられませんか。このままじゃ、シマさんがあまりに気の毒ですよ」

 


 「やっぱり現場って楽しいなあ」
 吐息混じりの島津の呟きは、誰に向けたわけでもなく、ただのひとり言のようであった。
 会社近くに最近できた和食の店、「志乃田」の小上がりに、佃たちはいる。
 半月ほど前、「小さな和食屋ができて、これがなかなか評判いいみたいですよ」と聞き込んできたのは、耳の早い営業部の〝若頭〟、江原春樹だった。
 試しに訪れたところ、佃はいっぺんで気に入ってしまった。
 八重洲にある老舗和食屋で修業したという主人が、夫婦ではじめた小さな店だ。料理は旨いし、店を仕切る女将さんの目も細かいところにまで行き届いている。この日のように、大切な客をちょっともてなすのには最適だ。
 「シマさん、これからどうするつもりなんだい」
 しばらく酒を酌み交わした後、佃は打ち解けた口調できいた。「どこか行く当てはあるのか」
 「いえ、いまのところは」
 島津は、自嘲気味の笑いを浮かべ、首を横に振った。「大学に戻ろうかなとも考えたんですが、ちょっと難しそうだし」
 「だったら、ウチで一緒にやらないかい」
 佃はあらためて、いった。「さっき見てもらった通り、ウチはこれから本格的にトランスミッションに進出しようと思ってるし、シマさんが力を貸してくれるんなら、鬼に金棒だ。ウチの連中だって、大喜びすると思うんだ。ひとつ考えてみてくれないか」
 島津の顔に喜びの色が浮かんだのも束の間、それはすぐに消え、心持ち顔を伏せると、
 「なんだか疲れちゃったんですよね」
 そう呟くようにいった。「いままで必死でがんばってきたのに、結局、それってなんだったのかなって。どうも気持ちの整理がつかなくて」
 七年前。島津は、かつて帝国重工で同僚だった伊丹大に誘われ、ふたりでトランスミッション専門メーカー、ギアゴーストを立ち上げた。帝国重工という組織の片隅に追いやられ燻っていたふたりにとって、それはまさに人生を賭した冒険のはじまりだったに違いない。
 島津が設計した最新のトランスミッションを、伊丹考案のビジネスモデルで製造販売する。一切の内製はせず、ネジ一本に至るまで外注して製造拠点を持たないベンチャー企業だ。
 新たなトランスミッションメーカーとして、斬新な着想でスタートした同社は、当初こそ苦戦していたものの、五年近く前にアイチモータースの量産コンパクトカーでの採用が決まり、ようやく軌道に乗った。
 ところが、新興メーカーとしていよいよ成長を遂げるこのタイミングで、共同経営者だったふたりの関係が破綻したのである。
 順調に回っているように見えたその歯車がなぜ狂ったのか、詳しいことは佃にはわからない。
 いや、島津にもわからないのかもしれない。
 「すみません、佃さん。もう少し、時間いただけませんか」
 頭を下げた島津の心中を慮るとそれ以上何も言えず、
 「ああ、わかった。ウチはいつでも歓迎するから」
 佃はそう言い止めるしかなかった。

(つづく)

 

池井戸潤『下町ロケット ヤタガラス』は9月28日発売です!

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