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2018.7.14

【第5回】池井戸潤の大人気シリーズ、待望の最新刊『下町ロケット ゴースト』第1章[5]を無料公開中!

【第5回】池井戸潤の大人気シリーズ、待望の最新刊『下町ロケット ゴースト』第1章[5]を無料公開中!

この夏、最注目小説の第1章を特別連載。シリーズ累計250万部突破の大人気シリーズに、待望の最新刊が登場! 大田区の町工場・佃製作所にまたしても絶体絶命の危機が訪れる。そんな中、社長の佃航平は、ある部品の開発を思いつくのだが……。宇宙(そら)から大地へ――いま、新たな戦いの幕が上がる!

第1章ものづくりの神様[第5回]

 その土曜日の昼前、大田区にある自宅をクルマで出た佃は、途中、品川区内にあるマンションの前で山崎をピックアップして首都高に乗った。

 渋滞を抜け、東北道に入ったのは一時過ぎ。梅雨の晴れ間の、すでに真夏を思わせる強い日差しをフロントガラス一杯に浴びながら下り車線をひた走り、佐野藤岡インターを降りる。

 数キロも走ると、車窓の両側一杯に田んぼが続く田園風景が広がり始めた。初夏の日差しが照りつける無風の水田は、雲ひとつ無い好天を青々と映している。

 「トノさん、病院にいるんじゃないんですか」

 直接殿村の自宅に行くと告げると、山崎が不思議そうな顔をした。

 「いや、いつも午後は自宅にいるらしい。オヤジさんの代わりに、農作業をしなきゃならないんだそうだ」

 「農家はたいへんですねえ。――あ、あの辺りですかね」

 カーナビを頼りに県道を走り、両側を田んぼに囲まれた一本道から、こぢんまりとした集落の中へ入ったところだ。長い塀に囲まれた古い建家が見えてきた。

 「あの家かな」

 近づいて「殿村」という表札を確認した佃は、運転してきたクルマを家の前の空き地に駐めた。

 旧家である。

 中を覗くと、中庭を囲むように土蔵と、シャッターを開け放した倉庫のようなものがある。二階建て和風建築の母屋はその奥だ。

 「立派ですねえ」

 山崎が目を丸くするのも無理はない。三百年続く農家だという話は以前、聞いたことがあるが、聞きしに勝る豪農である。

 静かな昼下がりだった。母屋の玄関で呼びかけると、甲高い返事とともに現れたのは七十過ぎとおぼしき小柄な女性だ。殿村の母親だろう。佃の姿をひと目みると、

 「佃社長さんですか」

 恐縮したように腰を折った。「遠いところを、わざわざありがとうございます」

 「いつも直弘さんには大変お世話になっております」

 佃は山崎共々頭を下げた。「このたびは、ご主人が入院されたとのことで、お見舞いにと思いまして」

 持参してきたフルーツのかご盛りを母親に渡すと、相手はますます恐縮して小さくなったように見えた。

 「それで、ご主人の具合はいかがですか」

 佃が尋ねると、

 「お陰様で手術はうまく行きまして。順調ならあと二週間ほどで退院できるんじゃないかとお医者様にはいわれてるんです」

 「それはよかったですね」

 佃は心からいい、「直弘さん、いらっしゃいますか」、そうきいた。

 「直弘はいま田んぼに行ってまして。そのヘンにいると思うんですが――」

 佃たちを連れて敷地を出た母親は、道路を隔てた向こう側に広がる水田に目をこらした。

 梅雨どきの湿気を帯びてそよぐ風は、どこか懐かしい土の匂いがする。

 風に乗って小型エンジンの音が聞こえてきた。見れば、遠くの圃場を一台のトラクターが走っている。

 「ああ、いました。いま呼んできますから」

 歩きかけた母親に、

 「ああ、いいですから。私たちで行きますので。お気遣い無く」

 作業をしている殿村のほうへ、田んぼの畦道を歩いていく。あまりに広いので、近くに見えても歩くと距離があった。

 「懐かしい音だな、ヤマ。わかるか」

 歩きながら山崎にいうと、「初代ステラですね」、という返事がある。

 『ステラ』は佃製作所が製造している小型エンジンだ。

 父の死をきっかけに研究の道を諦め、佃製作所を継いで初めてリリースした新しいエンジン、それがこの初代ステラだったのである。水冷二気筒ディーゼル、三十馬力。当時としては、最も効率的な燃費と性能を兼ね備えていた。

 強い日差しが降り注いでいるが、それを遮るものは何もない。湿度が高く、歩いているだけで汗が噴き出し、あっという間にシャツが肌にへばりつく。

 「トノさん、我々に気づいてませんよ」

 にんまりして山崎はいった。「驚かしてやりますか」

 「いやいや。作業が終わるまで待とうや。邪魔をしちゃ悪い」

 ちょうどすぐそばの田んぼの脇に、物置小屋があった。庇の下にあるビールケースが椅子代わりになって、座るとひと息つける。

 トラクターは、エンジンの回転数を一定に保ちながら、広い区画を直線上に走り、突き当たりまで到達すると引き返す動きを繰り返していた。

 周りの圃場には水稲が青々と繁っているのに、そこだけ水が張られていないのは休耕田だからだろう。作業服の上下に、麦わら帽子。首にタオルを巻いてハンドルを操作している殿村は、作業に熱中していて佃たちに気づく様子がない。

 トラクターは後ろに、耕耘用の回転する爪をもったロータリーと呼ばれる作業機を装着していた。

 トラクターの構造が自動車と比べて圧倒的に違うのは、エンジンが生み出したパワーが、自動車ではタイヤにだけ伝わるのに、トラクターの場合は、背後に装着したそのアタッチメントを動かすための動力源にもなっていることだ。

 いま、田んぼの先端近くまでいった殿村のトラクターのスピードが変わり、ギアが切り替えられたのがわかった。ロータリーは回転し続けている。左へ旋回するために左側のタイヤにだけブレーキをかけて小回りするのはトラクター独特の動き方である。

 佃のいるところから、回転する耕耘爪が見えている。土中に刺さる深さは十数センチほどだろうか。

 回転する速度は速く、爪は見えない。

 「考えてみれば、こうしてステラを搭載して動いているトラクターの作業風景って、見たことがなかったですね」

 ふと山崎がそんなことをいった。ロータリーの回転数は維持したまま、今度は右へ旋回していく。何度目だろう。殿村の手が動き、首のタオルで顔をぬぐった。

 「しかし、蒸し暑いですねえ」

 山崎が誰にともなくいって天を仰いだ。「悔しいですけど、これからの農機具は快適性だっていうヤマタニの主張もわからんではないな」

 ハンカチで額をぬぐいながら、「ねえ、社長」、佃に相づちを求める。

 返事はない。

 見れば佃は、山崎の声など耳に入らないほど真剣な表情で、トラクターの動きを凝視していた。

 殿村の手が動いてギアを操作し、エンジンの回転数が変わった。作業機が地中をかき回し、土埃がゆっくりとたなびいている。

 「なあ、ヤマ。あのトラクターの動きを見て、何か気づかないか」

 山崎は、きょとんとした。「トラクターの動き、ですか」

 視線をトラクターに振った山崎は、再び殿村の作業ぶりを観察するが、やがて首を傾げた。

 立ち上がった佃が用水路をひょいと飛び越し、畦道を歩き出したのはそのときだった。

 「ちょっと、社長」その後を山崎が追いかける。

 「トノ!」

 歩きながら佃が両手をメガホン代わりにして呼びかけた。「トノ!」

 ようやく、殿村がこちらを振り返り、佃に気づいたらしい。トラクターの動きが止まり、「あ、社長!」、そんなひと言とともに殿村が降りてくる。

 「来てらしたんですか」

 エンジンが切られ、すとんと幕が下りたように辺りが静かになった。

 「ああ、ちょっと作業を見せてもらってた。オヤジさん、順調なんだってな」

 「ありがとうございます。ただ、退院してもすぐに農作業っていうわけにはいかないんで。やっぱり私が手伝うことになりそうです。この暑さでは病み上がりの老人では無理ですから」

 「しばらくは大変だな」

 ため息混じりにいった佃だが、「ところで、頼みがあるんだが。このトラクター、オレにも運転させてくれないか」、そう申し出る。

 「これを、ですか?」

 殿村がトレードマークのぎょろ目を丸くした。「別にかまいませんが、運転の仕方、わかりますか」

 「それはわかる。後ろの作業機の動かし方だけ教えてくれないか」

 そこはエンジンの専門家である。簡単なレクチャーを受けると、わけがわからないという顔で見ている山崎を尻目に、佃は運転席に乗り込んだ。

 いったい何をしようというのか。

 佃の手によって、エンジンがかけられる。殿村と山崎が畦に退避するのとトラクターが動き出すのは同時であった。

 直進を始め、畦近くになると、教えられた通りにブレーキを踏み、片方の車輪をロックする小径での回転をやってみせる。

 「うまいもんだなあ」

 殿村が感心するほどの手並みだ。「スジがいいですよ。農家でもやっていけるんじゃないでしょうか」

 「根っからの機械好きだからね」

 隣にいる山崎がそんなことをいった。「あの手のものなら、見ればおおよそ構造がわかるんだよ、あの人は。天性のものだ」

 佃の運転するトラクターは直進を続け、ロータリーの耕耘爪が激しく土塊を掘り返し、細かな土煙を舞い上げはじめた。

 エンジンの音が変わり、

 「あれ?」

 殿村が声を上げた。「あそこは直線だから、別にギアを入れ替えなくてもいいんだけどな」

 言い終わらないうちに、また変わった。次にロータリーを上げたり下げたりの動作を繰り返す。

 「何やってるのかな、社長は」

 山崎が首を傾げた。レバーを操作するたびに、佃は運転席から後ろのロータリーの動きを確認している。

 またターンしてこちらに向かってきた。なんどもギアチェンジを繰り返し、そのたびにエンジンの音は高くなったり低くなったりを繰り返している。

 十分ほど経っても、佃はいっこうにトラクターから降りる気配がなかった。

 最初畦道で見ていた殿村と山崎のふたりだが、仕方がないので小屋の日陰に入って遠くから作業を見守ることにした。

 「なにか気になることでもあったんですかね」

 半ば呆れながら殿村がきいた。「この暑いのに、大丈夫かなあ。ちょっと家に戻って飲み物持ってきます」

 そういって一旦自宅に戻った殿村が、ペットボトルのスポーツ飲料を抱えて戻ってくる。

 「もうちょっといいか、トノ」

 佃のところまで飲料を届けた殿村に、佃がいった。

 「どうぞどうぞ、気の済むまでやってください」

 一旦、何かに熱中するととことんやらないと気が済まない。そんな佃の性格を殿村は知り尽くしている。「私は、草むしりでもしてますから。終わったら声をかけてください。隣の休耕田もやってくれてかまいませんから」

 結局、佃がトラクターを降りたのは、それから二時間ほども経ってからだった。

 「ありがとう、トノ。おかげで、次になにをすべきか、わかった気がする」

 佃から思いがけないひと言が飛び出したのは、休憩のために殿村の自宅に戻ったときであった。

 汗だくだからと応接間を断り、母屋の隣に建つ納屋の作業台に腰掛けている佃は、いまエンジンを止め、そこに鎮座しているトラクターをいとおしげに眺めている。

 「あの、社長。次にすべきことってなんです」

 山崎がきいた。

 「その前に、トノにききたいことがある。作業機の耕耘爪なんだけど、農作業のためには回転数が一定のほうがいいんじゃないか」

 「それはもちろんですよ」

 殿村は頷いた。「そういうのが一定じゃないと、作業ムラっていうんですかね、よく耕されているところとそうじゃないところができてしまうわけなんです。そうすると、田んぼや畑でも、そこだけ作物の生育状況が変わってくるらしいんですね」

 「やっぱりそうか」

 そういって佃はじっと取り外されたロータリーを見つめたまま考えていたが、

 「もし、作業ムラのできないトラクターがあったとしたらどうだろう。買おうと思うか」、そうきいた。

 「そりゃ買いますよ」

 殿村がこたえる。「まあ、買うのは私じゃなくてウチのオヤジですけどね。いつも作業ムラを気にしてましたから。でも、そんなものができるんですか」

 「できる」

 佃はいった。「だけど、いますぐにはできない」

 「あの、それはどういう意味ですか」

 殿村は、謎々でも出されたような顔になる。

 冷たい麦茶を吞んでいた山崎が顔を上げた。ようやく、佃のいわんとするところを理解したらしい。

 「もしかして、社長が考えているのは、トランスミッションですか」

 「その通り」

 佃はようやく手の内を明かしはじめた。「トノの作業を見ていて気づいたことがある。作業機の精度は、トランスミッションの性能に左右されるってことだ」

 「トランスミッションの、ですか」

 殿村にはピンとこなかったらしい。「いや、トランスミッションという言葉はもちろん聞いたことがあるし、このトラクターにもクルマにもそれがあることは知ってるんです。でも、具体的に、トランスミッションってのはどういう役割をするものなんですか」

 「日本語でいうと変速機だね。誰でも知ってる一番簡単なトランスミッションは、自転車の変速機ですよ」

 山崎が説明役を買って出た。「切り替えレバーを操作すると、一段とか二段とかギアが切り替わるでしょう。チェーンが小さな歯車から大きな歯車に移動して、ペダルを踏んだときのスピードが変わる。あれと同じ役割のものが、クルマにも、そしてこのトラクターにも搭載されているんですよ」

 「わかったようなわからないような……。すみません、ピンとこなくて」

 殿村は詫びながら続ける。「それで、次にウチがやるべきことってのは……」

 「その、トランスミッションを作る――」

 創見ともいうべきひと言を、佃は口にした。「どれだけ高性能なエンジンを開発したとしても、乗り味や作業精度を決めるのはエンジンじゃない。トランスミッションなんだ。その意味では、たしかにエンジンなんか動けばいいのかも知れない。だけど、トランスミッションはそうはいかない。高性能のエンジンと、高性能トランスミッション。佃製作所がその両方を作れるメーカーになれないか、真剣に検討してみる価値はあると思う」

 「いいと思います」

 鬱勃たる闘志を秘めた口調で、山崎がいった。「挑戦のしがいがある。どう、トノさん」

 「そうですねえ」

 殿村は首をひねり、少々遠慮がちに経理部長らしいひと言を返した。「それって、開発するのにいくらぐらいかかるもんなんですか」

 

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『下町ロケット  ゴースト』第1章無料公開全5回、毎日更新します!
第1回(7月10日公開) 
第2回(7月11日公開) 
第3回(7月12日公開) 
第4回(7月13日公開)