「フィクションという
装置が描く現実」
河合香織
誰も傷つかないような記事を書いてくれ─。
作中、誘拐事件で娘を失った父が新聞記者に向けて発した願いは、祈りのように切実で、しかし残酷なほどに叶わぬものだ。何かを書くこと、伝えることは、必ず誰かを傷つける可能性を孕む。辻村深月の新刊『ファイア・ドーム』は、小さな街を狂わせた噂の恐ろしさを精緻に描く群像ミステリーである。だがそれと同時に、情報を伝えるメディアや、何かを発信することが内包する暴力性を突きつけてくる物語でもある。
かつて私自身、全国を歩き、様々な連れ去り事件や失踪事件を取材してきた。被害者家族の痛みに耳を傾け、時に加害者の声も聞き、薄氷を踏むような思いで文章を書いた。しかし、その言葉の一部がネットでは無機質に切り取られ、結果として取材相手を深く傷つけてしまった経験がある。「真実を伝えなければならない」という使命感に突き動かされながらも、私はどれほど無自覚に他者の人生を消費していたのだろうか。この圧倒的な長篇は、安全圏から石を投げる世間だけでなく、他ならぬ書く者である私の足元をも激しく燃え上がらせた。
物語は1994年、「新聞記者」を名乗る男に取材の名目で誘い出された一人の女性の失踪から幕を開ける。その25年後、蒔戸盆地に位置する閉鎖的な街で、再び連鎖が始まる。
新任教師・美冬のクラスから消えた一人の男子児童。その失踪を機に、街の空気は一変する。男児の最後の目撃者となった美冬は「あの時にああしていれば」という責任を問われ、やがて彼女自身がネットの濁流に飲み込まれていく。
一方、美冬の恋人で地元紙記者の透真は、葛藤を抱えながら事件を追う。そこに立ちはだかるのはかつての事件に紐づけられた歪んだ噂と身勝手な憶測の壁だ。被害者であったはずの人物が、いつの間にか「被害者の素行が悪かった」「どうせ、親が殺したんだろう」「真相は別にある」と無責任に囁かれ、理不尽なバッシングの標的へとすり替えられていく。街全体が巨大な「ファイアードーム」となり、熱を帯び、当事者たちの逃げ場を奪っていく。誰が火を放ったのかさえ分からない。ただ、善意の顔をした隣人たちの囁きが、絶望的な速度で当事者を焼き尽くしていくのである。
恐ろしいのは、それが明確な悪意によって引き起こされたものでさえないということだ。人々の「知りたい」「語りたい」という興味と好奇心が充満するドームの中で、当事者は追い詰められていく。外野の人間は、熱が冷めればスマートフォンを閉じて簡単に終わったことにできる。けれども、当事者は生涯にわたって、狂わされた人生を生き続けなければならない。そして最も残酷なのは、誹謗中傷に加担した当人たちが、後になって事実が検証された際、「あんな荒唐無稽な噂が立ったなんて信じられない」「そんな無責任なことを言う人がいたなんて許せない」と本気で憤ってみせるという無自覚さだ。彼らにとってそれは軽薄な娯楽であり、悲劇を消費しているに過ぎないのだ。
透真はペンを武器に街を覆う炎を鎮めようとするが、その言葉すら、別の誰かを傷つける可能性を孕む。現実の取材においても、どれだけ言葉を尽くそうとも、本当の意味で他者の内面にまで踏み込むことは困難だ。私はこれまでノンフィクションという手法で、その人の心の奥にあり、いつか誰かに問われることを待っていた言葉に届きたいと願ってきた。それでもなお、当事者になれない以上、言葉は時に暴力となる。一方で、事実だけを無機質に並べても人間の真実には到達できない。
しかし、辻村深月はフィクションという装置を使い、その壁を凄まじい覚悟で越えてみせる。登場する人物の切実な内面が丹念に描き出され、誰もが己の正義と感情の間で揺れ動き、立ち尽くす様がありありと浮かび上がる。犯人と見なされたあの人にも、過失を責め立てられたあの人にも、こちらの想像の及ばない苦しみがあったのかもしれない。そう思わされたとき、フィクションの世界は現実へと鋭く食い込んでくる。ノンフィクションでは決して可視化されない彼らの心の奥底を覗き込むとき、私たちはようやく、自分自身の中の無自覚な加害性に気づかされるのだ。
「─あんたたちにとっては単なる事件の一つにしかすぎないかもしれないけど、こっちはこれが人生なんだ! こっちは生きてるんだよ‼」
作中で加害者の家族から放たれる叫びは胸を抉るが、物語の後半、被害者の父はある言葉をかける。不条理に苦しむ当事者が、他者に向ける赦しの言葉に、私は息を呑んだ。これこそが本書の最大の光であろう。そして、その苦しみを一緒に背負うべきは、事件の当事者だけではない。事件を報じるメディアも、噂を口にした者も含まれるはずだ。
私にも、かつてある事件の被害者家族から託された言葉がある。「私たちのことをずっと見ていて」。今も自分を戒め続けるその言葉を、私は重く抱え続けている。事件を他人事として捉え、世間の関心が他に移れば忘却の彼方に追いやること。それこそが噂の炎に薪をくべる行為なのだ。単なる傍観者で終わらせないためには、その痛みが存在することを、決して忘れずにい続けるほかない。
本作は、他者の悲劇を安全な場所から消費して終わらせることを決して許さない。そして、差し出すのは、それでもなお、不正確な噂に抗いうるのは、真実に向き合おうとする営みだけだという確信である。私にはいまも毎年、失われた子の誕生日に連絡を入れている家族がいる。「私たちのことをずっと見ていて」。ページを閉じた後も、この物語は「忘れるな」と静かに燃え続ける。
かわい・かおり
1974年生まれ。ノンフィクション作家。『ウスケボーイズ 日本ワインの革命児たち』で、小学館ノンフィクション大賞を、『選べなかった命
出生前診断の誤診で生まれた子』で大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をW受賞。