日本美術全集

全20巻

日本の心が紡いできた比類なき「美」。「日本美術全集 全20巻」。今、日本に存在する「最高の美」のすべてがここに。

第6回配本 激動期の美術(幕末から明治時代前期)

 
責任編集/山下裕二(明治学院大学教授)
定価本体15,000円+税
ISBN9784096011164
判型・仕組B4判/296 頁
カラー図版口絵144ページ・カラー図版両観音16ページ
モノクロ解説ページ136ページ/上製・函入り/各巻月報付き

もくじ

  • はじめに 山下裕二(明治学院大学教授)
  • 日本美術史の裂け目を修復する—幕末明治期の豊饒な表現について 山下裕二(明治学院大学教授)
  • 19世紀日本美術の知覚変動 古田亮(東京藝術大学准教授)
  • 歴史を学ぶ・楽しむ—幕末明治期の視覚表現から 塩谷純(東京文化財研究所企画情報部 近・現代視覚芸術研究室長)
  • 激動期における「名工」の位置 黒川廣子(東京藝術大学准教授)
  • コラム/描かれた明治天皇 古田亮(東京藝術大学准教授)
  • コラム/幕末明治期の書 髙橋利郎(大東文化大学准教授)
  • コラム/激動期に起点をもつ日本の視覚文化—写真 三井圭司(東京都写真美術館学芸員)
  • コラム/伝統から解放された建築 清水重敦(京都工芸繊維大学准教授)

概要

江戸時代の250年間、独自の文化を成熟させてきた日本。鎖国が解かれ西洋から強烈な刺激が押し寄せて、さまざまな「美術」が流入する。油絵や銅版画、写真の技術などがもたらされ、横浜や長崎などの外国人居留地からその技術が全国へひろめられた。明治維新後には「美術」という言葉がつくられ、教育制度が整えられる。伝統的絵画のやまと絵、浮世絵、さまざまな職人芸にもその影響がおよんだ。高橋由一・五姓田芳柳・原田直次郎らの油絵、伝統的日本画の系譜をひく冷泉為恭・塩川文麟・狩野芳崖らの仏画や屏風、月岡芳年、河鍋暁斎、小林清親らの浮世絵や版画、またとくに重点をおいた工芸の分野では、柴田是真、白山松哉、旭玉山らの超絶技巧の数々を、あわせて180点あまりを紹介します。

第一章 日本油画の誕生
『鮭』で有名な高橋由一をはじめ、来日した外国人から学んだ初期のものから、ヨーロッパで学び帰国して描かれたものまで、わずかの期間に油絵の技術が本格的なものへ昇華されていくようすを、多数の作品を通じて紹介します。

第二章 雅と俗の交錯
狩野一信、菊地容斎、冷泉為恭らの仏画や東洋的画題を描いた作品と、江戸時代に生まれ発展した浮世絵の流れをつぐ月岡芳年、小林清親らの版画、河鍋暁斎は『新富座妖怪引幕』(見開き4ページで掲載)ほか9点を掲載。石版画の作品と副島種臣、三輪田米山らの書も取り上げました。

第三章 伝統絵画の命脈
龍図や山水図といった伝統的な画題を新しい表現を用いて描いた、二曲一双の屏風を多数掲載。奥原清湖の南画の図巻や、明治宮殿を飾った杉戸絵、川端玉章、狩野芳崖、橋本雅邦もこの章で紹介します。

第四章 極まる超絶技巧
これでもかと装飾を施された七宝や薩摩の大壺にはじまり、ホンモノかと見まがう、やきものに貼り付けられたワタリガニ。細かい彫金で作られた自在鉤は、いまにも動き出しそうな伊勢海老。微細な模様をまとった蒔絵の印籠や、絵のように織り込まれた壁掛、大胆に一面に彫り込まれた天井など、こんなものがあるのか!これも美術なのか!と迫力満点の作品を並べました。

第五章 西洋の技、日本の匠
長崎や横浜の居留地の外国人から学んだ写真技術。ポストカードから報道写真、記録写真まで、初期の写真を掲載しました。また、在地の大工が独自に洋風を取り入れて流行させた擬洋風建築や、和風なのに?というたてものを、あわせて8棟紹介します。

(編集担当・一坪 泰博)

 山下裕二先生とのお仕事は、これが3回目でした。さいしょは、この16巻でも取り上げた狩野一信の「五百羅漢図」。春先の暖かな日、成田山新勝寺へ一信の作品を撮影に行ったさい、お昼はウナギにしようと張り切っておられたのがおかしくて。そのつぎは、わたしが「ドラえもん」担当の部署にいた時に、藤子・F・不二雄全集のうち、「オバケのQ太郎 第9巻」の巻末の解説をお願いしました。書斎用のお部屋にうかがい、インタビュー形式で取材させていただいたのですが、そのお部屋というのがすごくて。ふつうの2LDKくらいのスペースが、廊下まで研究書、図録、それに美術全集の類でびっしりと埋め尽くされていて、学者さんというのはやはり、たいへんな職業だなあなどと思いました。そこで伺ったのが、オバQのテレビ放映が楽しみだったというお話しで、山下少年が白黒テレビのまえで喜々としてオバQを観ている姿を想像したものです。そのときわたしが手みやげにお持ちしたのは、鎌倉の「鳩サブレー」でした。辛党で、甘い物など召し上がらないと確信しつつ、奥さまとお子さまへのウケを狙ったわけですが、案の定、戸惑ったお顔で受け取られたのを記憶しています。それから1年後に、みたび一緒にお仕事することになるとは思いませんでした。

 さて、この16巻、山下先生と論考執筆者3人の先生がたが一堂のもと、さいしょにお顔をあわせたのは2012年4月でした。なんと刊行の1年半まえです。それから、お忙しい先生がたのスケジュールを調整していただいて、毎月1度はお顔をあわせて、巻の構成を組み立てていきました。お集まりいただくのは、みなさんのお仕事が終わった平日の18時ころからでした。ふつうはそんなに集まったりしないものと思ったのですが、山下先生が、各先生にしっかりと作品の選定をお願いしたいということで、わたしのほうはとくに毎回気合いを入れてお弁当選びにせいを出したものです。夕方、小社の会議室に三々五々お集まりになり、お弁当を食べ終わったところで、作品の選択やページ構成を検討していきました。

 ところがあるとき、先生が言うのです、お弁当は嫌だなあ、と。先生は何を召し上がりたいのですか? う〜ん、神保町といえば中華でしょう。ハイ、わかりました。次回からはサクッと会議を終わらせて、中華にしましょう。ということで、それ以後は、空いたお腹をおかきなどでごまかしておいて、会議が終わったあと中華料理店へ向かうことが多くなりました。上海ガニを食べてみようか、この辛そうなのがいいねえと、そんな愉快な“会議”をなんと10回くりかえしました。

 今回を最後にしようかとおっしゃったのが2013年1月10日でした。ああ、これでつまらなくなるなあと思いました。それから校了まで8か月、先生ご自身の原稿はササッと書き上げられ、ほかの先生がたもそれまでに煮詰めてこられていたので、わりと早く原稿をいただけました。ほかの巻にくらべて、だいぶ楽だったようです。抜群の地ならしをしていただいていたわけです。食べものの話しばかりですが、お仕事のほうもかようにキッチリされています。

 ここまでの話しだと、先生は食いしん坊だということになってしまいそうですが、そうではありません。ただ、おいしそうに召し上がるとき、無言でムスッと召し上がるとき、そのようすを観察するのがわたしの楽しみだったという話しです。ほかの先生がたも、おそらく同じようなことをお考えだったのではと思ったのは、最後の修正原稿を受け取りにうかがったとき、これでしばらくこの顔をみなくてすみますねとご挨拶をすると、終わったら打ち上げをしましょうよ、と異口同音に言われたからです。もう一度みなで集まってワイワイやりましょう、と言っていただいているのやなあと勝手に解釈しました。こういうときに、編集者っておもしろい仕事やなあと思います。高校の文化祭の追い込みと似てるというと、ちょっと卑近でしょうか。終わったら打ち上げだ、というのも似てます。ちなみに、わたしの高校では9月に体育祭と文化祭が2週間おいて開催され、それが終わったら千里万博公園の芝生のうえで打ち上げというのが決まりでした。

 いまは、山下先生はじめ、例会に出ていただいていた黒川、古田、塩谷先生たちと、どこでなにを食べようかとニヤニヤしながらお店選びをしているところです。

(編集担当・一坪 泰博)