2025年で作家生活10周年を迎えた井上真偽。いまや令和の日本ミステリシーンを牽引し、常に新作を待ち望まれるトップランナーのひとりだが、そのプロフィールは「神奈川県出身」「東京大学卒業」としか明かされていない。
そこで、ちょうど本誌発売と同時に、同じく小学館から最新刊『白雪姫と五枚の絵 ぎんなみ商店街の事件簿2』が刊行されるタイミングに、この覆面作家の10年を振り返ってみたいと思う。
記念すべきデビュー作『恋と禁忌の述語論理(プレディケット)』(2015年)は、講談社文芸第三出版部の編集者たちが選考を行なう公募新人賞「メフィスト賞」に投じられ、第51回受賞を勝ち取った作品。「数理論理学」を扱ったミステリ─と書くと、いかにも東大卒の著者らしい学術的な作風を想起してしまうかもしれないが、さにあらず。天才数理論理学者(癒やし系美人!)の硯(すずり)さんが、名探偵たちによって解決されたはずの殺人事件を検証し、その推理をひっくり返していく「名探偵を超える最終探偵、誕生!」(ノベルス版帯より)といった連作形式の内容は、エンタメ度の高い理系ミステリの新たな書き手としての顔を強く印象付けた。
このデビューから8カ月後に刊行され、「井上真偽」の名を一躍轟かせる出世作となったのが、『その可能性はすでに考えた』(2015年)。『恋と禁忌の述語論理』のレッスンⅢに登場した探偵・上苙丞(うえおろじょう)をメインキャラに、この世界に奇蹟が存在することを証明するため、「その可能性は、すでに考えた」の決めゼリフとともに、トリックが成立しないことを反証していくユニークな多重解決は絶賛を巻き起こし、各年末ランキングにランクイン、翌年には第16回本格ミステリ大賞にもノミネートされた。
続編『聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた』(2016年)は、さらなる好評で迎えられ、『2017本格ミステリ・ベスト10』国内部門第一位、また本格ミステリ大賞にも二年連続でノミネートを果たす。
著者初の上下巻作品『探偵が早すぎる』(2017年)は、なんと事件が起こる前に殺人トリックを看破し、犯行を計画していた人物にトリック返しで報復する、仕事が〝早すぎる〟探偵が登場。ユニークな名探偵キャラと手数の多い謎解きを得意とする作風は、本作でひとつの頂点を迎え、のちに滝藤賢一と広瀬アリスのダブル主演でテレビドラマ化されるほどの人気を博した。
ここから井上真偽は、それまで見せていなかったストーリーテラーとしての才能を発揮していく。
『ベーシックインカム』(2019年/2022年『ベーシックインカムの祈り』と改題・文庫化)は、全5編からなる作品集。近い未来を舞台に、テクノロジーの発達と人間を題材にした物語は、よりシンプルな構成で読み手の胸を深く打つミステリとしても秀逸。収録作のひとつ「言の葉(コトノハ)の子ら」は第70回日本推理作家協会賞短編部門にノミネートされ、『ザ・ベストミステリーズ2017 推理小説年鑑』や『ベスト本格ミステリ2017』といった傑作選にも加えられた。
井上作品のなかでもとくに物語のダイナミズムが味わえる『ムシカ 鎮虫譜』(2020年)は、瀬戸内海に浮かぶ孤島を訪れた若者たちが、襲い来る虫の大群を相手に、音楽を武器に立ち向かう、パニックホラー&青春冒険小説の魅力を融合した意欲作だ。
そして、井上真偽のキャリアを振り返った際、極めて重要な年となるのが2023年だ。この年は6月に『アリアドネの声』、9月に『ぎんなみ商店街の事件簿』〈Sister編〉と〈Brother編〉を2冊同時刊行し、大きな話題を集めるとともに、いずれもベストセラーとなった。
『アリアドネの声』は、巨大地震によって地下に取り残された、見えない、聞こえない、話せない、3つの障害を抱えた女性を、ドローンを駆使して6時間以内に安全な場所まで誘導できるか─を描いたスリリングな救出サスペンス。終盤の強烈なサプライズに胸が熱くなる。
『ぎんなみ商店街の事件簿』〈Sister編〉〈Brother編〉は、商店街で起こった三つの事件を、三姉妹と四兄弟、双方の側から異なる展開で解き明かしていく、前代未聞の構成に目を見張る超絶技巧作品。どちらから読むか、どちらのエピソードの方が好みか、そうした読み手の意見や好みが飛び交ったことも記憶に新しい。
型にはまらない、つぎにどんな作品が飛び出すか予想が付かない、そんな作家像をさらに強くしたのが、『引きこもり姉ちゃんのアルゴリズム推理』(2024年)。朝日新聞出版の児童向けミステリレーベル〈ナゾノベル〉の一冊で、男子小学生を視点人物に、引きこもりで風呂嫌いだけど「アルゴリズム」を駆使して名探偵のごとく謎を解く〝姉ちゃん〟の活躍を描いたジュブナイル連作。知的好奇心を刺激したデビュー作のテイストが、こうした児童向けの形としても光るとは誰が想像できただろう。
そして最新刊となる『白雪姫と五枚の絵 ぎんなみ商店街の事件簿2』は、タイトルのとおり、22万部突破の大ヒットとなった『ぎんなみ商店街の事件簿』の続編だ。かつて商店街の〝白雪姫〟と呼ばれた認知症の老婆の入院先で見つかった、魔女が白雪姫に毒林檎を渡そうとしている絵。朝のジョギング中に亡くなったスポーツ店店主の遺体の傍に落ちていた、定期入れに入った子豚たちが走る絵の写真。こうしてつぎつぎと見つかる5枚の「見立て絵」に隠されたメッセージとは。三姉妹と四兄弟がタッグを組んで挑む推理と真相に、乞うご期待だ。
ミステリの様式にこだわるのではなく、物語を極上のものとするためにミステリ的技巧を見事なまでに駆使する作家、井上真偽。この10年のキャリアは、まだまだそのポテンシャルのごく一部を披露したに過ぎないのかもしれない。さらなる活躍を期待せずにはいられない。
【著者プロフィール】 宇田川拓也【うだがわ・たくや】……1975年、千葉県生まれ。千葉県船橋市でミステリを幅広く取り扱う名物書店・ときわ書房本店店長。横溝正史と大藪春彦を神と崇める偏愛書店員。