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2019.11.17
第5回『タスキメシ 箱根』:箱根駅伝100年! 胸熱スポーツ小説決定版第2弾発売!! 全6回連載
この記事は掲載から10か月が経過しています。記事中の発売日、イベント日程等には十分ご注意ください。
「館野監督が、今年こそ箱根駅伝出場を勝ち取りたいって、言うからさ」
千早が大学に入学した年。監督に就任した館野は、千早達一年生に「卒業までに何をしたい?」と聞いた。あの年に入部した四人の一年生は、全員「箱根駅伝に出てみたい」と言った。館野は「そりゃあ、そうだよなあ」と言った。
あれから三年たった。「出てみたい」という、決意と願望と、ほんのちょっとの気後れが混ざり合った目標は、まだ達成されていない。
「そのために協力してほしいって言われて、俺も自分の研究に役立ちそうだなって思ったから。あと、栄養管理に関してはバイト代も出るし、寮に入れば家賃も格安だし、いろいろメリットもあってね」
煮立った鍋に豆腐とカットわかめを入れて蓋をした早馬が、千早の手元を見て笑った。
「手、止まってる」
慌ててキャベツを千切る作業を再開すると、早馬は豆腐とわかめの入った鍋に味噌を溶き入れて、「はい、味噌汁一丁上がり」と満足げに頷いた。
病院勤務だったと聞いたせいだろうか。白衣を着たその姿は、昨年末まで千早達を世話してくれていた海老名さんとはかけ離れすぎていた。小学生の頃、給食の配膳で白衣を着ていた記憶があるのに、早馬の白衣はどうしても医師や薬剤師を連想させる。ついさっき、スカイブルーのウエアを着て自分の前を走っていたのが、嘘みたいだ。
再び冷蔵庫を開けた早馬が「うわ、卵の賞味期限が今日だ!」とか「あ、挽き肉あった、嬉しい」などと言いながら、作業台と冷蔵庫を往復する。
ふと視線を感じて振り返ったら、カウンターの影から狐の毛皮のような明るい髪が、こちらを覗き込んでいた。森本だった。食堂の外にはちらほらと他の部員の気配がある。今日は練習も休みだから、のんびり朝のジョギングに行っていた部員が帰ってきたのだろう。
森本は、しかめっ面で千早を見ていた。何これ? 何がどうしてこうなったの? ていうかあの人誰? という顔だ。千早と早馬を行き来する視線が、そう訴えている。
「隠れてないで来て」
右手にキャベツを持って、左手で森本を手招きして、千早は言った。「おはよーございまーす」と調理場に入ってきた森本に、早馬は「あ、おはよう」とにこやかに挨拶した。森本がますます困惑する。
「森本、とりあえずキャベツ千切って。ひたすら千切って」
千早は、手つかずだったキャベツを一玉丸々、森本に押しつけた。食べるのは好きだけど作るのは嫌いな森本は、気が進まない様子でキャベツを千切り始める。
「誰? 海老名さん、入院して若返った? 日本の医療やばくない?」
森本が千早の腕を小突いてくる。
「そんなわけないじゃん」
「じゃあ何? 海老名さんの孫? 息子? 娘婿? 養子?」
「うちの院に入るって。今日から入寮するらしいよ」
眞家早馬のことをかいつまんで説明してやると、森本はますます狼狽えた。「え?」「何それ?」と、ちょくちょく千早の話を遮ってくる。レースが始まれば寡黙で冷静な性格なのに、普段はこの調子だ。脳と口が直結してるのだ。
その間に、調理場にはいい匂いが漂い始めた。挽き肉を炒めた早馬がそこに溶き卵を流し入れ、あっという間にそぼろ入りの厚焼き卵を作ってしまった。大きなフライパンで、三十人分を次々と作っていく。
館野に頼まれたから、駅伝部に入部した。コーチアシスタントになった。寮の食事係もやることにした。
言葉にすると単純だけれど、赤の他人に頼まれて「はい、喜んで」と受け入れるには、どれもこれも荷が重い。しかもこの人は、仕事を辞めて大学院に進学しているというのに。
果たして、どういうつもりでこの人は白衣を着て、こんなおんぼろ寮の調理場で卵焼きを焼いているのだろう。
「あのう、眞家さん」
空いているコンロに再び鍋を置いた早馬の背中に、千早は問いかける。
「……キャベツは、何に使うんですか?」
聞きたかったことはキャベツの使い道ではないはずなのに、何故か喉元で質問がすり替わってしまう。
「軽く茹でて、すり胡麻と醤油と砂糖と塩で味付けするんだ。簡単だけど美味しいんだよね、これが。作り置きおかずにもなって便利だし」
彼の目が、ふとカウンターの向こうへ移る。釣られて千早と森本も見た。今日の調理係の下級生や、他の部員まで一緒になってこちらを覗き込んでいる。全員、表情が先ほどの森本とそっくり一緒だ。
「あの、千早……」
紫苑寮の寮長でもある四年の葉月憲太郎が、みんなの疑問を代弁するように声を上げた。
「……どちら様?」
ああ、うん、海老名さんが若返ったみたい。日本の医療って凄いね。そんな軽口の一つも叩いてやろうかと思ったら、コンロの前にいた早馬が「あはは」と笑った。
「今日から君達の胃袋を任されました、眞家早馬です」
彼のフルネームを聞いた森本が、何故か隣で「ん?」と首を傾げた。今度はなんだ、と聞く前に、早馬がまた肩を揺らす。
「とりあえず、暇な人はキャベツ千切って」
今更ながら、白衣が蛍光灯の明かりを反射して、堪らなく眩しかった。
【連載第6回に続く】