1898年、東京都・湯島生まれ。小学校卒業後に浴衣の図案屋に奉公に出たのち、黒田清輝主宰の葵橋洋画研究所で絵画を学び、幾つかの職を経験したが、日活の俳優と知り合ったことをきっかけに、1920年、日活向島撮影所に入社した。
助監督を経て、23年『愛に甦る日』で監督デビュー。同年の『霧の港』が評価されるが、9月に発生した関東大震災により向島撮影所が閉鎖、京都・大将軍撮影所に移籍した。
26年『紙人形
春の囁き』がキネマ旬報ベストテンで7位に選出され、同年の『狂恋の女師匠』と共に高く評価される。撮影所が太秦へ移転し、29年の泉鏡花原作『日本橋』と傾向映画『都会交響楽』で再び注目され、30年には日活のトーキー第一作『ふるさと』を手掛けた。その後日活を退社し、『滝の白糸』(33年、新興キネマ)がキネマ旬報ベストテン2位となり、『折鶴お千』(35年、第一映画社)『マリヤのお雪』(35年、第一映画社)『浪華悲歌』(36年)『祇園の姉妹』(36年)と山田五十鈴を主演にした一連の作品で名声を高めた。
41年、42年と前後篇で公開された超大作『元禄忠臣蔵』(東亜映画、松竹京都)を経て、戦後第一作は田中絹代主演の女性の自立を描いたプロパガンダ映画『女性の勝利』。以後、作品の多くで田中と組み、その主演作である『西鶴一代女』(52年、新東宝=児井プロ)、『雨月物語』(53年、大映)、『山椒大夫』(54年、大映)が立て続けにヴェネチア国際映画祭で受賞、“世界のミゾグチ”としてその名を轟かせた。
55年に紫綬褒章、56年勲四等瑞宝章を受章。56年、白血病を患い8月24日に死去。享年58。『赤線地帯』(56年、大映)が遺作となった。