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プロローグ

「何やってんの?」。
 ぎゅうぎゅうというほどではない、けれどリュックやトートバッグは胸に抱えておかないとすこし肩身が狭い、そんな車内に、鋭い声が響いた。吊り革と人の腕の隙間から声がした方をうかが うと、知った顔が見えた。見間違い、ではない。つい先月も同期の飲み会で会ったばかりだ。
 だからその言葉を発したのは彼だとばかり思った。神尾かみおくんてあんなドスの利いた声が出せるんだ、なんて軽く驚き、次の瞬間には目を疑った。
「撮ってるよね? ちょっと来て」
 神尾くんがうなだれ、立ち位置からいってたぶん乗り込んだばかりの車両から降りていく。その肩をがっしり摑んでいるのが、きっと本当の声の主。そして「きみもいい?」と促されて女の子が後に続く。髪に隠れて顔は見えなかった。それはダイヤを乱すわけでもない十秒足らずの出来事で、アナウンスとともに呆気 あっけ なくドアが閉まり、電車が走り出すと、彼らに顔を向けていた乗客も何事もなかったようにスマホや車内のデジタルサイネージに視線を戻した。天気予報やニュースが流れている。どうして私たちは何かを見ずにはいられないんだろう。
 ――ねえ、今の、なに。
 どこかから、誰かのひそやかな声が聞こえる。
 ――盗撮っぽい。何かリーマンがリーマンに連れてかれてた。
 ――まじ? バカじゃん。人生終わったね。
 神尾くんの人生は、けさ終わったらしい。

 夜、娘を寝かしつけてから夫にその件を話すと「やばいじゃん」とどこか愉しげだった。「ニュースになってる? 会社としてお びとかしなきゃいけないんじゃないの。株価下がるかな」
「チェックしたけど、ニュースにはなってないみたい。本人は会社に来てなかったらしいけど」
「ふうん、じゃ、示談で済んだのかな」夫はたちまちつまらなそうにほおづえをつく。
「テーブルに肘つかないで。……びっくりしちゃった、全然、そんな感じの人じゃなかったから」
「そんな感じの人って?」
「いかにもな……わかるでしょ? しゅっとしてて、身だしなみもきちんとしてたし、部署が違うから普段そんなに絡みないけど、セクハラ系の うわさ聞いたこともなかったし」
「男なんて、皮一枚剝がせばみんな同じようなもんだよ」
「あなたも?」
「んー……」
 夫はもったいぶるように笑ってから、尋ねてきた。「もし俺が盗撮とかやらかして捕まったらどうする?」
「離婚するよ」
 私は即答した。「すぐ名字変えて一生会わないし娘にも会わせないし、あなたのご両親や親族とも関係を断つ。どんなかたちであの子の将来に響くかわからないからね」
 何それ。途端に夫の笑みが引きつる。
「何って、かれたから答えただけ」
「一刀両断すぎるって」
「ほかにどう答えればいいの? 仮定の話だよね?」
「当たり前だろ。そんなこといちいち念押してくんなよ」
「男なんてみんな同じようなもんってあなたが言ったんだよ」
「はあ……もういいよ」
 夫がため息をついて席を立つ。「やってもないことで疑われたみたいで気分悪い」
 模範回答がわからないので、謝りようもなかった。寝室の扉が閉められる。きっと、これ見よがしに派手な音を立てたかったのだろうけれど、ソフトクローズ設計のマンションは夫の不機嫌をかちゃりと静かに受け止めた。娘が目を覚ます心配をしなくていいからありがたい。
あなたがそんなことするはずない、とか、何かの間違いに決まってるから傍で支える、とか、そんな反応を期待していたのかもしれない。でも、言いたくなかった。だって私の話を聞いても、盗撮された女の子への同情の言葉がひと言も出てこなかったから。お詫びや株価なんて、どうでもいいのに。
 疑われたみたいで気分悪い、だから何だと言うんだろう。撮られたり覗かれたり触られたり後をついてこられたり、それらの恐怖や屈辱に比べたら取るに足りない、と夫が女だったらわかってくれるのかもしれないし、逆に私が男だったら夫の不快をわかってあげられるのかもしれない。
 キッチンの隅に置いた踏み台代わりのスツールに腰掛けてひとりでビールを飲んだ。この、流しと食器棚に挟まれた狭い空間でちびちび飲んでいると何とも言えない安らぎを感じるのだけれど、これも夫が見たらいい顔をしない。「わざわざそんなとこで寛がなくてもいいだろ」と。私の特等席にも理解は得られない。膝の上のスマホがLINEを受信する。
『神尾さんが逮捕されたってマジですか?』
 ふたつ下の後輩で、私とも神尾くんとも部署はかぶっていない。誰から聞いたんだろう。私は、同じプロジェクトチームの同期に「けささあ……」としゃべった。彼女はすぐ神尾くんの部署にいる同期に確かめ「きょう、体調不良で休んでるらしいよ」とこっそり教えてくれた。そこから先、どう広まったのかは知らない。自分が漏らした手前、口止めするのも憚られた。だって、盗撮なんてするほうが悪い。もし ぎぬ だったら、言われるまま電車を降りたりはしていないだろう。
 返信せずにいると、今度は姉からLINEが届いた。一枚の画像と『やばくね?』のコメント。画像は学校で配られたと おぼしきプリントを撮ったもので、「児童のみなさんへ」というタイトルがついていた。 『先生たちはどんなことがあっても、みなさんと教室やトイレでふたりきりになろうとすることはありません。もしそんなことを言われたら
①はっきりと「いやです」と言う
②その場で大きな声を出してほかの先生を呼ぶ
③おうちでお父さんやお母さんに話す
この三つをできるようにしましょう。先生たちは、みなさんを守ります』
 私は、この春から小学校に通い始めためいの顔を思い浮かべながら姉に電話をかけた。
『もしもし』
「LINE見たよ、何あれ」
『隣の学区の小学校でわいせつ教師が逮捕されて、急きょ配られた』
「ああ……やだね、最低」
『ね。こっちも、先生を信用するなとは言いにくいけど、しょうがないよね』
 そんな感じじゃない人も、そんなはずはない人も、信じられない。
「でも、自分の子ども時代を思い出すと、変に距離が近い先生っていなかった?」
『いたいた。膝に乗せたり、やたらおんぶとか肩車してくれたり。ほら、小四の時の……ってあんたは知らないか』
 もちろん、子どもを膝に乗せるのも、おんぶや肩車をしてくれるのも、純粋な好意や愛情ゆえだったのかもしれない。でも、愛情を かくみのにした欲望によって傷つけられた女の子や男の子が、確かに存在する。
 ささやかな晩酌を終えて寝室に入ると、ベッドから夫が「ごめん」と謝ってきた。「当然の意見なのはわかってたんだけど、何かさ、つめたい、愛されてないって思っちゃって……」
「ううん」
 キングサイズのベッドの真ん中で眠る娘を起こさないよう、そっと身体からだを滑り込ませる。
「なあ、そろそろ子ども部屋と分けない?」
「まだ三歳になったばっかだよ。怖い夢見て泣きながら起きる時だってあるし」
「そうだけど……これじゃ、ふたり目つくれないじゃん。あんまり年の差つけたくないねって言ってただろ」
「ん」
 生返事をしながら、けさのことを思い出していた。電車じゃなく、会社でのこと。しょっちゅう紙詰まりを起こすプリンタがあって、会議資料を印刷する時に案の定エラーが出た。紙をいっぱいにセットするとほぼ百パーセント詰まるので、そのたびトレイの半分程度まで減らしているのに、なぜか気づくと誰かが満タンにしていて、そして詰まる。
 私は、いらいらしていた。娘が出がけにぐずったせいで電車を二本逃し(そしてあの光景を目撃した)、一分一秒が惜しい時にプリンタの機嫌に煩わされ、何なのよ、と心の中で悪態をついていた。
 だから、神尾くんのことをしゃべった。独身で、子どももおらず、仕事に全振りできる身分のくせに盗撮なんかで人生を棒に振ろうとしていた神尾くんが、あの時許せなかった。八つ当たりだったと自分に認めても、罪悪感は湧いてこなかった。悪いのは彼なんだから。
「なあ、聞いてる?」
 れたような夫に「聞いてるよ」と答えた。「次は男の子がいいな」
「俺は姉妹もいいと思うよ。おそろいの服とか着せてさ、かわいいじゃん」
「男の子がいいの」
 悪いことをする子に育つかもしれなくても、悪いことをされるかもっておびえるより、安らかでいられるでしょう?
 私はそっと目を閉じる。あしたも神尾くんの人生は続くみたいだけれど、彼はあの電車に乗ってくるだろうか。