STORY
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江國香織

息をするだけで熱い午後で
原稿用紙の枡目は埋まらず
私は階下に降りました
おなかがすいていたわけではないのですが
ほかに誰もいない台所で
冷蔵庫をあけると
かまあげしらすがありましたので
ラップをはがし
パックから直接
スプーンですくってたべました
まず冷気が
つぎにやわらかく甘い塩けがひろがって
私はうっとり目をとじました
かまあげしらすたちは
もちろん錯覚なのですが
眠っていたようでした
目をあけると
居間のカーテンを透かして
狭い庭が見えました
彼らの夢見ていたのかもしれない海が
そのときガラス戸の外に押寄せ
彼らが泳いでいたときのままの
深さとつめたさと圧倒的な心強さで押寄せ
ガラス戸を突き破ることもなく私を
胃のなかのしらすたちごと
のみこんだのでした
九月のことです








江國香織

わたしたちはあの日
シェリルとロバートだった
(証拠写真もある)
脱獄には失敗したけれど
午前中の雨が昼すぎには唐突にあがり
真夏みたいにあかるい日ざしが照りつけた
ちょうど十七年前の
私が時計を失くした日とおなじように

こわい乗り物はできるだけ避けたけれど
水しぶきのかかるやつには三回乗った
橋の上には五回くらい立った
あふれんばかりの日ざしのなかで

そしてそのすべては
MとYからの
美しい贈り物だったのだ

私の時計は消えてしまった
時間は私を置き去りにした
十七年も
けれどここにはすくなくとも日ざし
ふんだんな とほうもない
日ざし
時間の外側
シェリルとロバートの上に

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