STORY
STORY

江國香織

湿ったウールの匂いはかなしい
夕方五時に弾くピアノの音や
もう会えない人たちの思い出や
口論のさなかにふいに訪れる沈黙や
誰かの噓を信じるふり

おなじくらいかなしい

先のまがった煙草の吸殻や
ぶつぶつ鳴る古いレコードや
なくした指輪や
電車でゲームをしている知らない人の表情

おなじくらいかなしいし

いわれのない叱責を受けたときの気持ちや
穴のあいた浮輪や
小学校の下駄箱や
色あせた絵葉書

おなじくらいかなしい

実にまったく
湿ったウールの匂いはかなしい
けれど私は依怙地なので
雨の夜でも
断固
ウールのオーバーを着て
でかけます








江國香織

冬眠しているのか凍死したのか
わからない栗鼠が一匹
木の根元に横たわっていた
セントラルパークの冬の日
雪景色で
何もかもが調和していて美しく
バスタブで死んだ母も
こんなふうだっただろうかと
私は思った

書誌情報
書誌情報
本書を購入する
本書を試し読みする

このページのトップへ