日本美術全集

全20巻

日本の心が紡いできた比類なき「美」。「日本美術全集 全20巻」。今、日本に存在する「最高の美」のすべてがここに。

第19回配本 (1)日本美術創世記(縄文・弥生・古墳時代)

 
責任編集/原田昌幸(文化庁主任文化財調査官)
定価本体15,000円+税
ISBN9784096011010
判型・仕組B4判/312頁
カラー図版口絵144ページ・カラー図版両観音16ページ
モノクロ解説ページ152ページ/上製・函入り/月報付き

もくじ

  • はじめに 原田昌幸(文化庁主任文化財調査官)
  • 論考/縄文世界の土偶──造形的展開に関する諸課題 原田昌幸(文化庁主任文化財調査官)
  • 弥生時代の造形・文様・絵画 橋本裕行(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館学芸課課長)
  • 埴輪の造形 日高 慎(東京学芸大学准教授)
  • コラム/縄文時代の漆工芸 原田昌幸(文化庁主任文化財調査官)
  • コラム/東アジア大陸との交流拠点・壱岐──原の辻遺跡と壱岐の古墳 松見裕二(壱岐市教育委員会文化財課)
  • コラム/フゴッペ洞窟 橋本裕行(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館学芸課課長)
  • コラム/二つの古墳壁画──高松塚古墳とキトラ古墳 増記隆介(神戸大学准教授)
  • コラム/続縄文時代、恵山文化──特異な漁撈活動を行なった人たち 佐藤由紀男(岩手大学教授)

概要

 日本美術全集全20巻配本19回目にして、ようやく第1巻『日本美術創世記』を刊行します。この巻に掲載したものは、ほぼすべて地面の下から発掘されたもの。これまでの「作品」は、それが作られたときから誰かの所蔵物として保存されてきたものでしたが、今回の「作品」は、一度土に戻りそうになったものばかりです。これら考古学の成果を「日本美術」の原点におくのは、過去に刊行された「日本美術全集」から引き継ぐ「伝統」で、われわれの知る「美術」と連続的に理解できるものもある一方、特異なもの、これも日本? と思われるものまで、さまざまなものを取り上げました。
 日本列島に現生人類が定着したのは、今から3〜4万年前と考えられています。本書で取り上げた最古の「作品」は、2万年前に作られたと思われる黒曜石の打製石器です。動物を仕留め、その皮を剥ぎ、肉を取って食べる。生きていくために必要な最小限の道具で、黒曜石というガラス質の素材のせいもありますが、ほれぼれする質感、形状です。伝統工芸に携わる職人の道具をもちだすまでもなく、われわれの生活においても日常的に使う道具に愛着を感じ、飾ったり、磨いたりします。同じことを旧石器時代人たちも、やっていたのではないでしょうか。第一章「美の誕生」では、それら旧石器時代から縄文時代を取り上げます。過剰なまでの装飾で知られる笹山遺跡出土の国宝「火焔型土器」を筆頭に、同じく国宝に指定された5体の土偶すべてを紹介します。そのほかに掲載した土偶、土器、漆を使った製品や石製品も、ほとんど重文指定品です。
 第二章は弥生時代。大陸から稲作技術とともに、多くの新しいモノが持ち込まれました。土器もそれまでとは異なる技術で作られ、金属器が普及したために精緻な細工の木製品なども作られます。縄文時代のデザインとははっきりと傾向が異なり、また、ひじょうにシンプルです。土器や銅鐸などに絵画が描かれたものがあり、とくに多く紹介しています。
 第三章は古墳時代。クニが成立し、各地の有力者が大規模な古墳を築く時代です。墓室に収められていた威信具や祭祀道具、墳丘に並べられていた埴輪、黄金色に輝く装身具や、細かい象嵌が施された鉄刀など、代表的なものを取り上げています。最後は高松塚古墳の壁画です。8世紀初頭の貴人の墓室に、遣唐使による中国との交流の成果といえる、鮮やかな人物群が描かれたものです。
 第四章は、日本列島周縁の文化として、寒冷のために稲作技術が入らなかった北海道で発展した続縄文文化、オホーツク海沿岸周辺にみられるオホーツク文化の「作品」、さらに南西諸島域の貝製品などの「作品」を紹介します。
 一度は目にしたことがあるものも多い一方で、とくにお見せしたい、あまり目に触れていないものも取り上げたので、是非ご覧ください。

(編集担当・一坪泰博)

 地味な色の1冊になりました。褐色、土色、金もありますが、さびた銅や鉄のかたまり、石、骨、貝、若干のガラス、せいぜい赤の彩色か。しかしどうでしょうか、黒曜石の輝き、のたうちまわる縄文土器、存在感たっぷりの土偶。これらを芸術と云わずしてなんと云おうか。ということで、日本美術全集の第1巻を飾るのは、考古資料です。ほとんどのものが、土のなかから出てきた「埋蔵文化財」、つまり遺物です。これまでの「美術」とは異なり、考古学の研究者に集まってもらって作品を選定し、原稿も書いていただきました。依頼されたほうも、「美術」の観点から書けと云われて、おおいに戸惑われたことと思います。考古学の研究者は原稿が遅いという伝説があって、この巻は苦労するよと云われていましたが、そんな戸惑いも遅筆に拍車をかけたかもしれません。

 さて、考古資料は、寺社に古くから伝わるものなどの一部をのぞいて、だいたいが地元行政による調査発掘で出土したものです。各地の埋蔵文化財センターに持ち込まれた遺物は、土や汚れを洗浄し、接合(かけら同士がくっつくものをくっつけること)できるものは接合して、報告書刊行のための実測図を描き、撮影したあと、ほとんどはプラスティックのコンテナ(給食のパンの運搬に使われているような大きさのもの)に入れて倉庫へ収められてしまい、ちょっと変わったものが博物館などで展示されることになります。これらのうち、意味があるものと新聞・テレビで報道されたりすると、のちに国の重要文化財に指定されることもあります。

 文化庁によると、現在、国宝は1000件あまり、重要文化財は12000件あまりあり、それらのうち考古資料はそれぞれ46件、572件だそうです(いずれも「一括指定」があるので、点数はもっと多い)。しかし、その背後にはおびただしい数の「作品」(以後、考古資料を「作品」と記す)が、各地の倉庫で眠っているのです。たとえば、縄文時代前〜中期の大規模集落である青森県の三内丸山遺跡では、一括で重要文化財に指定されている作品1958点のうち土偶は11点ですが、遺跡全体では土偶だけで2000点が出土しているそうです。それら有名無名の無数の作品が詰まったコンテナから、このたびの掲載作品を選び出しました。なるべく、さまざまな種類のもの、その時期の特徴的なもの、きれいなもの、興味深いもの……、個人の趣味に少し偏ったところもありますが、まずはかなり網羅できたのではないかと思います。

 さいしょに作ったリストは、最終的に掲載したものの2倍近くあり、ある程度絞り込んだあと、所蔵先に写真の有無を確認し、新規撮影が必要かどうか、それは可能かどうかを検討するところからはじめました。果たして、美術全集に掲載できる写真があるのかどうか。埋蔵文化財の記録写真を撮るばあい、ふつうはモノクロの35mm、せいぜい口絵にカラーで載せるかどうかが基本なので、美術全集のB4判に引き伸ばして掲載することなど想定しません。デジタル撮影においても、保存容量を抑えるために、それほど精細な写真も撮っていないでしょう。また、モノの姿形をしっかりおさえる記録写真であって、「美」を魅せる写真である必要はないものです。展覧会図録やパンフレットなどのために、思ったより色気のある写真もあって助かりましたが、かなりの数の新規撮影を要することになりました。最終的には、計10回20日間の撮影旅行で25か所をまわり、掲載写真のうち50カットほどが新規撮影のものになりました。さらに、縄文時代の土器や土偶を積極的に撮影し、多くの関連著書がある小川忠博氏からも多数の提供を受けて、豪華な「写真集」にすることができました。

 ほかに遺物を伴わない「作品」を、何年前のものとするのか。稲作文化が入ってきたのは何年前か? 古墳が造られたのは? などと、いろいろ議論があるなか、それらを封じ込める「作品」がある日発見されて、大どんでん返しが起きるかもしれないのが考古学のコワイところです、と執筆者のひとりが話していました。しかしそのぶん、「作品」をめぐってさまざまな想像をふくらませることができるのも、考古学の楽しみでもあります。こうしていろいろな経緯を経て掲載したこれら200点ほどの「作品」ですが、まずは遠いむかしに、この日本列島でわれわれと同じように生きた人びとが、これらの「作品」をどんなふうに製作し、あるいは手もとで愛でたり、また、亡くなった人に手向けたりしたことに、思いを馳せてみてください。

(編集担当・一坪泰博)