平安時代初期、人びとはすでに高度な稲作技術を開発し、少なくとも24に及ぶ稲の品種を作出していた。そして、1週間ずつその作付けの時期をずらすことで、労働力の効率的な配分と、病害虫や台風などに対応した食糧安全確保を図った。コシヒカリ系一辺倒の現在、もし病害が広がったら、実るのは1200年を生き延びた稲「畔越(あぜこし)」だけになるかもしれない。
経典を筆写する写経司たちが、上司に待遇改善を求めた要求書の草案が正倉院で見つかっている。浄衣の取替え、月に5日の休暇、3日に一度の酒、麦は毎日支給することなどの要求が掲げられている。
平安時代には絵と詞書(ことばがき)が分けて描かれていた絵巻物だが、鎌倉時代になると、現在の漫画のフキダシのように、人物の台詞が画中に書き込まれるようになる。絵巻は子供たちの楽しみであった。。
1230年の「寛喜(かんぎ)の大飢饉」に際し、鎌倉幕府は救援米を拠出し、人身売買禁止令を一時的に解除して窮民が富家の奴婢となることを許可した。朝廷は、幕府からの莫大な費用提供により、800人に及ぶ供回りを従えた勅使を伊勢神宮に派遣して飢饉の終息を祈願した。浪費ともとれる朝廷の「公事」は、疫病や自然災害から民衆を守る「撫民」として、幕府の救援米と同様に大きな意味をもっていた。
混乱した戦場では、同士討ちが絶えない。とくに足軽や野伏などの寄せ集め兵による夜討ちでは、敵味方の識別法が大切になる。夜討ち後の引き上げの際に敵兵が紛れ込んでくる危険を防ぐ手立てが、「居すぐり」「立ちすぐり」である。掛け声や太鼓にしたがって、全員が一斉に立ちあがったり、座ったり。松明が明々と照らしだす中、周りの動作についていけずに立ち尽くす敵兵の青ざめた顔が眼に浮かぶ。
足利義尚は8歳で室町幕府第9代将軍となる。17歳になったある日、義尚は突如として束ねた髪を自ら切り落とす。将軍職を息子に譲った後も依然として政治の実権を握り続ける父・義政と面会したくない一心の行動である。義尚はこの他にも、眉を剃る当時のしきたりに反して眉を生やし、同じく、立鳥帽子ではなく折烏帽子を被るなどの反抗を試みる。将軍・義尚も、その素顔は伝統を重んじる父に反発するひとりの若者であった。
江戸時代、最初は銀100枚が最高額だったキリシタン摘発の褒美金。その後しだいに200枚、300枚とつりあがり、最後は500枚にまで増額された。徳川日本は「非キリシタン」を国民統合のスローガンとする国家だった。
1804年9月、ロシアの遣日使節レザノフに伴われ、アリューシャン列島に漂着した石巻の漁民・太十郎が長崎に送還されてきた。引渡し交渉上の駆け引きにより上陸を拒まれた太十郎は、悲嘆の挙句、自殺を図る。一方、太十郎の仲間のひとり善六はロシアに残り、ロシア人として生きる道を選んだ。そして漂流から19年後、日露交渉の通訳として母国の土を踏む。上陸前、彼が「私は日本人ではない」とあらためて覚悟をした記録が残っている。
1881年、明治天皇の地方巡幸に際し、道筋からなるべく雌馬を遠ざけておくようにとの通達が出された。天皇の馬車を牽く雄馬が「動揺」するから、というのがその理由だった。
